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Iron butterfly : order.09.1 chaser


何を目指しているのかもわからないまま
どこへ辿り着くのかもわからないまま
追い求めて 追い求めて



「……また急に静かになりましたね」

 階段を上る店主の背を見送り、バーテンダーは呟いた。同様に見送ったクーガは肩をすくめ、皮肉っぽく応えた。

「全くだ」

 店の留守番を頼まれて来てみればバーテンダーは利き腕を骨折していて、熱を出していた。看病しながら待っていたら、右目から血を流した店主が半裸のウェイトレスを抱えて帰ってきた。しかもマフィアの車で。そして店主は女のクーガにウェイトレスの手当てを任せ、自らの手当てをし、階上から戻ったクーガに礼と「寝る」とだけ告げ、さっさと自室に引き上げたのである。

「……で、結局何だったんだ?」

 カウンター内のゴミ箱に捨てられた、血濡れのシャツに目をやりながらクーガが言う。

「……さあ」
「なんだ、聞かなかったの?」
「いや、なんていうか、聞くに聞けなくて……」

 自由の利く左手で頬を掻き、バーテンダーが答える。

「……いつか話してくれますよ、きっと」

 そしてあどけなく笑い、それにつられてクーガも小さく吹き出した。

「まあ、とりあえず丸く収まったみたいだし、いいけどね」

 腕を上げて伸びをすると、クーガは大きく息を吐き、戻した腕をぶらぶらと揺らしながら言った。

「じゃ、あたし帰るわ」
「あ、じゃあ、店番代を……」
「あー、いい、いい。また来るから、その時に奢れってマスターに言っといて」

 出入り口のノブを掴み、半分押して振り返る。

「また何かあったら呼んでよ。力になるからさ。それじゃ、お大事に」

 バーテンダーの丁寧な礼を背に聞きながら外へ出ると、晴れ渡った夜空に星が浮かんでいた。はんなりと冴えた空気にドアの上で揺れるベルの音が混ざり、柔らかくクーガを包む。星ごと吸い込みそうだと思い、クーガは肺を大きく膨らませた。全身の空気が入れ替わり、疲れが染み出していく。

 やれやれ、と声にしてみる。傷付いた少女と店主の姿を思い出してしまい、クーガは浅く溜め息を吐いた。まったく、心配させやがって。

 帰ったら、飲もう。手酌でも気付けにはなる。そんなことを考えながら家へ向かっていると、どこからか微かに鈍い音が聞こえた。直感的に殴打の音だと悟り、出所を探して目をやる。この辺りで喧嘩は珍しいものではないが、喧嘩屋としての血の疼きからか、クーガは音のした方へ足を向けた。

 廃墟の陰に、人影が見えた。二人が立っていて、一人が地面に伏している。元は二対一の喧嘩だったらしく、二人は対峙していた。全員が男であることくらいしかわからず、クーガは更に踏み込んだ。

 薄暗い外灯に、男の横顔が照らされた。

 それを見たクーガは駆け足で間に割り込み、振りかぶられた拳を弾いた。そこで、殴りかかった方の男にも見覚えがあることに気付いた。

「ク、クーガ……!」
「やあ、こないだのお客さんじゃないか。お久し振り」

 拳を引き、男は後退りした。よく見ると前歯が一本欠けている。旧友に会ったかのようににこやかにしているクーガの後ろでは、もう一人の男が突然の助っ人にきょとんとした表情を浮かべていた。

「悪いんだけど、こいつ、知り合いなんだ。タタキ狙いだったら、退いてくれないかな」

 背後を親指で差しつつクーガが言う。辺りにはわずかに鉄臭い匂いが漂っていた。

「……それとも、歯、もう一本折りたい?」

 反射的に男が両手で口を押さえる。クーガはしゃがみ、倒れている男の頬を軽く叩いた。

「ほれ、あんたも起きな」

 うめきながら目を開けた男は一番にクーガの顔を見つけ、飛び起きた。

「さ、行った行った」

 言われるまでもなく、二人の男は我先にと駆け出していた。半ば呆れてそれを見送り、クーガは後ろを振り返った。残された男は廃墟の壁に気だるくもたれ、クーガを見ていた。

「お久し振り」
「まさか、あなたに助けられるとは思わなかったな」
「あんたに任せてたら、歯じゃ済まないだろ、あいつら」
「……そうかもしれませんね」

 男は目を伏せ、微かに唇の端を上げる。その黒い髪と服は、闇に溶け込むようだった。

「で、こんなところで何やってるんだ? 前にも言ったけど、あたしはリュニオンの手下になる気なんか……」

 皆まで言わないうちに、クーガは言葉を止めた。

「……エドウィン?」

 名前を呼ばれ、男が顔を上げる。蒼白い顔で、エドウィンはひっそりと笑った。

「スカウトで来たんじゃありません。もう、そんな必要はないから……」

 その体はずずっと壁を擦り、地面へ沈んだ。クーガが驚いて手を差し伸べるが、支え切れずに一緒に膝を着ける。もう一度名前を呼んで顔を覗き込むと、エドウィンは焦点の定まらない目で一度瞬いて、それきり目を閉じた。

 力の抜けたエドウィンの体がクーガに倒れ掛かる。抱き止めた頬に、髪がかかった。夜風が廃墟を抜けて毛先を揺らしている。そしてクーガは再び血の匂いを嗅ぎつけ、同時に左手に生温い感触を感じ取った。

 エドウィンの背中越しに自分の手を見る。外灯に浮かび上がった掌は赤く染まっていた。

 クーガはエドウィンを一旦壁に預けて立ち上がると、その体を背負った。長身のエドウィンを運ぶのは決して楽なことではなかったが、そのままにすることは考えられなかった。家からそう離れた場所でないことだけを救いに、クーガは足を動かした。

 ガレージのシャッターを抜けてエドウィンを運び入れた頃には汗だくになっており、クーガは上着を脱いでタンクトップ姿になった。投げ捨てた上着にも血が染みついていた。額の汗を拭い、床に散らばる工具やバイクのパーツをどかしてスペースを作り、マットを敷く。エドウィンを寝かせて上着を脱がせると、右脇が広い範囲で赤く濡れていた。舌打ちし、シャツを鋏で切って脱がせ、端切れで手と傷の血を拭う。銃創であることはすぐにわかった。幸いにも弾丸はかすめただけで貫通していたので手当ては一人でも可能そうだった。救急箱を傍らに、手際よく消毒を済ませる。その間、エドウィンはただ浅い呼吸を繰り返すばかりだった。

 化膿しないように薬を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻き終え、クーガはようやくほっと息を吐いた。どれだけ放っておいたのかはわからないが、出血の具合から見て自ら手当てする気があったとは思えない。もしかしたら、死ぬ気だったのかもしれない――そんな考えが頭をかすめ、クーガは包帯をそっと撫ぜた。エドウィンの呼吸は幾分落ち着き、規則的に胸を上下させている。

 寝顔を見る限り、エドウィンの顔には若干の年若さが残っていた。クーガと同じくらいか、ひょっとしたら下かもしれない。しかし、鍛えられて均整の取れた体にはいくつもの痣が浮かんでおり、古い傷跡が並んでいる。最近できたばかりらしいものも、消えかけているものも、無数に。……一体彼は漆黒の衣装にどれだけのものを隠してきたのだろう。

 と、エドウィンの瞼が揺れた。覗き込んだクーガの首筋を、一条の汗が伝い落ちる。ゆっくりと、薄らと、瞼は開けられた。

「……おはよう」

 不格好な物言いだと思いながら、クーガは目の開き切るのを待った。半ば開かれたところで瞼は止まり、目だけがさまよっている。少し漂ってからエドウィンはクーガを見つけ、曖昧な視線を向けた。

「気分は?」

 首を動かさなくて済むよう、クーガは身を乗り出して聞く。

「……ぐにゃぐにゃに歪んでます」

 整って並ぶ歯の隙間から、そう声が漏れた。血の気の引いた頬に手を当てると、ひやりとした弾力があった。

「このまま少し休んでな。そうすれば歪みも直る」

 額に張りついた髪をかき上げてやり、クーガは立ち上がった。破れた服やら汚れたガーゼやらを拾い集め、ビニール袋に詰め込む。

「……ここは?」

 いくらかはっきりした声でエドウィンがクーガの背に尋ねた。

「あたしのうちのガレージ。バイクいじってたもんだからちょっと油臭いけど、しんどいなら二階のベッドに運ぼうか?」
「いえ」

 控え目に答え、エドウィンは一つ深呼吸をしてみた。「大丈夫です」

 クーガはそれを聞きながらエドウィンのジャケットを広げた。

「他に聞きたいことは?」

 乾いた血がこびりつき、ジャケットは使い物になりそうもなかった。

「……アイアン・バタフライのマスターには会いましたか?」

 クーガは目を大きくしてエドウィンを見た。エドウィンは首をそちらに向け、異様なほど真っ直ぐな視線を寄越していた。

「……会ったよ。店番頼まれてたんだ。ウェイトレス抱えて、ボロボロになって帰ってきた」

 エドウィンに驚いた様子はなかった。

「あんたよりはマシな格好だったけど」
「……そうですか」

 深く息を吐き、エドウィンは表情を緩めた。頬に少し赤みが戻っている。

「……それって、ひょっとしてこれと関係ある?」

 クーガはジャケットの脇に空いた穴に指を入れて聞いた。弾痕の周りはごわつき、固まった繊維が指を掻いた。

 答えが帰って来るまで、しばらくの間があった。

「あります」

 それだけ答え、エドウィンは首を戻した。遥かなる高みを見るように、天井を見上げている。再び目を閉じると、体内を血が駆け巡っているのが感じられた。

「話す気はある?」

 それがあまりに率直な質問だったので、エドウィンはつい目を開けた。見ると、クーガは悪びれた様子もなくジャケットを眺めている。答えがわかっていて問うているのだとエドウィンは思った。

「もう少し、落ち着いたら」

 取り繕う必要はなかった。

「わかった。まあ色々とややこしそうだし、ゆっくり考えるといいさ。治るまで寝床貸してやるから」
「助かります」

 エドウィンはそろそろと手を動かし、包帯越しに銃創に触れた。腫れぼったく熱を帯びていて、心臓がそこにあるかのように脈打っている。

「……もう一つ、聞いてもいいですか?」
「何?」
「どうして、僕を?」

 エドウィンの指は、未だ血を滲ませている傷を撫でている。傷の中に隠れている答えを探るかような、辛抱強く、慎重な手付きだった。

「――あんたがあたしに倒れ掛かってきたから」

 クーガはジャケットを二つに折って腕にかけると、エドウィンの顔の横にしゃがみ、快活に笑った。

「あいにく、細かいことを考えるのは専門外なんだ。そのおかげか、勘は良い方でね。あんたがあたしに倒れ掛かってきた時に、直感でそうした方がいいと思った。それだけだよ」

 その人懐こい笑顔に、エドウィンは見惚れた。長く揃った睫毛も、形良く整った顎も、ゆるやかなカーブを描く唇も、全てが生きていた。今までの彼の世界にはない美しさだった。

「で、この上着、いる?」

 そんなクーガの笑みを、漆黒のジャケットが覆い隠す。不意に、エドウィンは体に染みついた銃や暗器の手応えを思い出した。身軽になるため、エドウィンはそれらを道中で捨てた。本人はそれを悪足掻きだと思っていたが、最後を迎えるのはどうやら枷の方らしかった。

「――いえ。捨ててください」

 その顔を見て、クーガは迷わず最後の枷だったジャケットを捨てた。ゴミ袋の口は閉じられ、脇に放り出される。エドウィンは大きく息を吐いた。安い電球が、やけに眩しく見えた。

「エド、食欲は? あれだけ血が出たんだ、何か食べた方がいいと思うけど」

 見上げてくるエドウィンの顔を見て、クーガは笑みをこぼした。

「……その前に、少し眠った方がいいか」

 ぼんやりとした目だった。やっぱり、年下かもしれない。クーガはどこかほっとするものを感じて、エドウィンの額に滲む汗を掌で拭ってやった。

 その手に、エドウィンの手が重ねられる。思いの外しっかりとした指が、思いの外柔らかな指を包んで握り締める。

「――ありがとう」

 二人にしか聞こえない、静かな声だった。

「……どういたしまして」

 言ってから、クーガは落ち着かなくなって空いている手で頭を掻いた。

「お礼言われるのって、なんか、慣れないんだよな。喧嘩屋なんてやってると、さ。まあ最近は使い走りとかバイク修理とか、色々やっちゃってるけど」

 ガレージの中をきょろきょろしながらクーガが早口に言う。

「仲間内の奴らに頼まれると断われなくってさ。まあ、できることしか引き受けないんだけど、できることならやってやりたいっていうか……」

 そんなクーガを見、エドウィンは目を細めて口を開いた。

「なら、修理屋でも始めてみたらどうですか?」
「修理屋?」
「ええ。壊し方がわかるなら、直し方もわかるでしょう。このガレージを使って……喧嘩屋よりも、向いてると思いますよ」

 エドウィンの出した言葉を噛み締め、クーガは目を伏せた。修理屋が向いている? 今まで喧嘩屋として壊すことを生業としてきたクーガに取って、思い掛けない言葉だった。でも。

「……悪く、ないかもな」

 そう呟くと、知らず知らず笑みがこぼれた。修理屋クーガ、か。

「だとしたら、あんたが最初の客だな。人からバイクまで直す修理屋なんて、そういるもんじゃない。だろう?」

 そこまで言って視線を戻すと、エドウィンは目を閉じて深い呼吸を始めていた。

「……エドウィン?」

 クーガの手を握る指から力が抜け、半開きの口から寝息が漏れている。それがまるで子どものような寝顔で、クーガは思わず吹き出した。

「――おやすみ」

 こいつが起きたら飯を作ってやって、一緒に食べよう。そんなことを考えると、なるほど、修理屋なんてお節介焼きな仕事は向いているように思えた。




チェイサー【chaser】
@強い酒の直後か、その間に飲む軽い飲み物のこと。水やビール、コーヒーなど。また、弱い酒の後に飲む強い酒。
A追撃者。女の尻を追う男。







  了









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