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Iron butterfly : order.10 Iron butterfly


鉄屑は空に憧れた
薄汚れてみすぼらしい世界から飛び立ち
あの空に高く舞いたいと
偽物の羽根を広げた


 食器の鳴る音が聞こえたので、スタンリーは自分が目を覚ましているのだと知った。散らかった部屋は相変わらず薄暗く、ちらちらと埃が舞っている。その様子に程好い安堵を感じたスタンリーは目を細め、ゆっくりと体を起こした。

 ベッドの端に座り、左腰に貼ったガーゼを剥がす。銃創はほぼ治り、わずかに跡が残るばかりだった。立ち上がり、大きく欠伸をする。脚の痛みもなくなっていたし、口の中の傷も塞がっていた。右目も問題なく見える。ガーゼを丸めてゴミ箱へ投げると、スタンリーはクローゼットを開けた。綺麗に洗濯されたシャツを一枚取り、ほんの少し落ち着かないものを感じながら袖を通す。まあ、悪くはない。

 部屋を出、シャツのボタンをはめながら階段を下りる。焼き上がったパンの匂いを嗅ぎ取って、腹が鳴った。

「おはようございます、マスター」

 カウンターの中から少女の声がした。ああ、とだけ答えてスツールに腰掛ける。ルーはスタンリーの前に遅めの昼食を並べた。スープの湯気が鼻をくすぐる。

「ウィリアムの奴はどうした?」

 パンをむしって口に放り込み、スタンリーが問う。

「買い出しです。そろそろ帰る頃だと思いますよ」
「買い出し? あの腕でか」
「ええ、大変だろうから私も行こうとしたんですけど――」

 そこまで出たルーの言葉を遮るように背後からドアの開く音が聞こえ、スタンリーはスツールを回して振り返った。

「あ、おはようございます、マスター。体、大丈夫ですか?」

 ベルの余韻に声が重なる。

「おまえよりはな」

 添え木で固定された右腕を揺らして、ウィリアムは笑った。その弾みで左に抱えた紙袋を落としそうになり、慌てて声を上げる。

「……おまえにとっちゃ怪我も役得か」

 ウィリアムの隣で荷物を支える女性を見やり、スタンリーは呟いた。

「え? あ、いや、僕は、別に……」
「あたしにとっちゃ災難よ。スタンリーが作るのはお酒だけで充分だもの」
「じゃあ何で来たんだ、ミランダ」
「冷やかしよ。ボロボロのお店を見にね」

 自分の持っていた分とウィリアムからひったくった分の二つの袋をカウンターに置き、ミランダはスタンリーの目前から水の入ったコップをさらった。スタンリーの呆れた眼差しをお構いなしにグラスを干し、空のグラスをカウンターに戻す。それを横目に、スタンリーは食事を続けた。

「どうせ、今日も店は休みでしょ?」
「いや、今日は開く」

 客もコックもウェイトレスも、店主を見た。スタンリーは注ぎ直された水をルーから受け取り、それをあおってから口を開いた。

「いい加減、おまえらも喉が渇いたろ?」
「そりゃあそうだけど」
「とりあえず、しばらくは俺とルーで開く」

 器に盛られたサラダやソーセージを口に放り込みながら、スタンリーは後ろに目を向けた。

「おまえは腕が治り次第入れ。それまでは休暇だ」
「……この店に休暇なんてあったんだ……」
「そのままクビにならないようにさっさと治すんだな。ナイフも握れないコックなんて使えん」

 ぎくりとしたウィリアムは、わけもなく背筋を伸ばした。その仕種に残る二人の笑い声が上がり、それを聞きながらスタンリーはスープを空にした。

「それじゃ、あたしはそろそろ行くわ」

 スタンリーがスツールから立ってカウンターに入ると、ミランダがそう言った。

「お節介ばっかり焼いてられないからね」
「仕事か?」
「そう。ここが開くなら稼がないとね。何だったら、客にこの店の宣伝でもしてあげましょうか?」

 艶っぽく唇の端を上げるミランダに、スタンリーはうるさそうに手を振った。ふと思い付いてそのままウィリアムを見る。ミランダの「稼ぐ」ということの意味を知っている彼は、努めて平静を保とうとして表情を固めていた。

 スタンリーは小さく息を吐いた。

「……ウィリアム、おまえも出掛けてこい」

 スタンリーは三人に背を向け、金庫に手を伸ばした。

「え、あの……出掛けるって、どこに?」
「いつまでもルーにおまえの着古しだの何だの着せるわけにもいかないって話してただろう。もう忘れたのか?」

 しれっとそう言うと金庫から適当な額を出し、答えを待つより先にウィリアムに押し付けた。

「丁度暇なんだ。いくつか見繕ってこい」
「ぼ、僕が選ぶんですか? そんな無茶な……」
「適任がいるだろ」

 向き直ったスタンリーが顔を上げる。

「……あたし?」

 ミランダに向けて眉を上げてみせると、スタンリーはカウンターの上から食器を引き取って流しに置いた。一連の流れを遠巻きに見ていたルーは少しだけ目を大きくして何度か瞬き、三人に目を巡らせた。呆気に取られているミランダに、平然としているスタンリー、それに、ぽかんとしているウィリアム。思わず、ルーは小さく吹き出した。

「お願いしてもいいですか?」

 スタンリーを残してカウンターを出、ルーは言った。

「ミランダさんなら、安心して任せられるし……私は、お店の準備がありますから」

 少し困ったように眉を下げ、ルーはミランダを見上げる。短く見合った後、ミランダは片手を腰に当ててスタンリーを睨むように見た。

「後で、奢りなさいよ」

 それだけ言うと、応えも待たずにウィリアムの左手を引いてドアを開けた。ウィリアムはよたよたしながら未だ目をしばたたかせたままの顔をスタンリーに向けた。送り出すように手を振るスタンリーに、心遣いを知ってか知らずか、ウィリアムは頭を下げてドアの向こうに消えた。

「……世話の焼ける奴だ」

 ドアベルが鳴り止んだところで、スタンリーが独り言ちる。ルーは抑えた声で笑った。スタンリーは食器を洗い、ルーはデッキブラシで床を磨き始めた。二人とも特に何も口にせず、店内には柔らかな静けさが漂った。

 いくらか経った後、ルーが床を磨き終えた頃に、スタンリーはカウンターに二つのグラスを置いた。一つは空のカクテルグラスで、もう一つのスリムなタンブラーにはカフェオレが入っていた。

「少し休め」

 額に滲んだ汗を手の甲で押さえた格好で、ルーが振り返る。小振りな氷の浮かぶカフェオレを見付けると、唇が曲線を描いた。

「いただきます」

 ブラシを片付けたルーがカウンターのスツールに座る。カフェオレを一口飲むと、目だけを上げてスタンリーに向けた。

「……右目の傷、残っちゃいましたね」

 スタンリーの右の瞼に残る、裂傷の跡を見ながらそう呟く。

「大したことじゃない」

 ぶっきらぼうなその応えに、ルーはどこかほっとしながら小さく笑った。

 スタンリーはシェイカーを取ると、ラムやジン、ウォッカなどの瓶の間に手を泳がせた。何を混ぜるのか決まっていないようで、思い付いたように手を動かしては止め、考え込むような目をして瓶を睨む。ルーは自分のグラスを両手で持ったまま、その動きに見入った。

 いつも思うことだが、スタンリーがカクテルを作るさまは静粛な闘争のように見えた。シェイカーにクラックドアイスを入れ、メジャーカップを使わずに、しかし正確に瓶の中身を注ぎ入れる。ライムを絞ることもあるし、卵白を使うこともある。細く伸びた指が恭しくシェイカーを持ち上げ、爽やかな音を立てて振られる。繊細で、緻密で、大胆な動き。ルーはいつも、目が離せなくなる。シェイカーからグラスに最後の一滴が注がれる、その時まで。

 それは、初めて見る色だった。乳白色と鈍色の中間の色で、細やかに浮かぶ氷が銀粉のように光っている。

「……新しいカクテルですか?」

 カフェオレを飲むことも忘れ、そう問う。

「未完成だがな」

 出来を見定めるような目でグラスを眺めながら、スタンリーが呟く。その目をふと上げると、あどけなく見上げてくるルーの瞳があった。

「アイアン・バタフライって名を付ける気でいる」

 そう言って目をグラスに戻すと、スタンリーはその細い足を持って口元に寄せた。

「……お店と同じ名前?」

 ああ、とスタンリーは短く答える。グラスから立ち上る冷気が唇に触れた。

「……どうして『鉄の蝶』なんですか?」

 店のことを聞いているのかカクテルのことを聞いているのか判別のつかない問いだったが、同じことだとスタンリーは思った。どちらにせよ、答えは変わらない。

 カクテルを一口含む。辛口ながら、口当たりは柔らかい。

「昔、俺はバーで働いていた」

 目を伏せたまま、スタンリーは言った。

「アッシュピットに行くよりも前の話だ。その頃の東スラムは今よりも細々とした奴らがのさばってて、俺がいたバーもそんなクズみたいな店だった。来る客も似たようなもんだったが、その中に、グレアム・リュニオンがいた」

 ルーの肩がぴくりと揺れる。スタンリーはそれを一瞥し、続けた。

「俺はスカウトされて、始末屋になった。それから……まあ、嫌になって、グレアムを撃って、逃げた」

 カクテルグラスをカウンターに戻し、その手を左腰に当てる。新しい傷跡の、少し下。

「俺も、撃たれた。弾は抜けてたが血が止まらなくて、六番街に入ったところで倒れた」

 外から風の音がする。風穴を吹き抜けるような細い音にかつての己を想起させられ、スタンリーは目を伏せた。左掌に血のぬめりが蘇るようだった。

「ひどく寒い日で、雪がちらついてた。人気のない場所に行き倒れて、今見てるもので見納めだと思ってな。無理矢理寝返りを打って、こう、空を見たんだ」

 今でもありありと思い出せる。あの瞬間、世界から音が消えたことを。

「そこで、見たんだ。鉄の蝶を」

 スタンリーは腰から手を離し、腕を組んでルーを見た。ルーは何も言わずに大きな目を向け返す。その顔が歳相応に幼く見え、スタンリーは小さく笑った。

「潰れた建物の残骸だの、剥き出しの鉄骨だのが影になって、羽根を広げた蝶に見えたんだ」

 たわいもない話だ、と笑ったまま言う。

「……でも、その偽物の蝶が、えらく綺麗に見えてな」

 沈痛なほどの静けさの中、大きく羽根を広げた蝶はスタンリーを見下ろし、白く冷たい鱗粉を漂わせていた。あれほど荘厳なものを、スタンリーは他に知らない。総毛立ったのは寒さのせいだけではなかった。

 心臓の脈打つ音だけが、世界を動かす音に聞こえた。この脈動こそが、俺の世界を動かしている――。

「そのすぐ後に、アンディに拾われた。たぶん、すぐ後だ。俺にはひどく長かったように思えたがな」

 ルーの手の中で、氷が溶けてグラスにぶつかった。

「……俺は、名前と経歴を捨てた。今じゃアンディに付けてもらった名前の方が馴染んでるが、それは俺の生まれ持った名じゃない。……過去を捨てるってことは、嘘を抱えて生きるってことだ。わかるな?」

 もう一度、氷が鳴った。ルーは顔から幼さを消し、おごそかに頷いた。

「……飲んだらどうだ。水になるぞ」

 スタンリーの言葉に、ルーが手元に目を落とす。長らく手付けずだったカフェオレは、頭に水の膜を浮かべていた。タンブラーを揺らし、混ぜる。ルーは晴れない表情でたゆたう水面を見つめるだけで、口をつけようとはしなかった。ただ、何度か何かを言おうと口を開け、何も言わずに閉じるばかりだった。

 風の音はなおも聞こえる。ルーもまた、自分が生まれ持った名で呼ばれていた頃のことを思い返した。あの頃に帰りたいとは、微塵も思わない。それでも、責め立てられるような思いを拭うことができなかった。

「……俺は、偽物ってやつが嫌いじゃない」

 グラスが、止まった。

「器が何だって関係ない。大事なのは――宿っているものの方だ」

 拳を胸に、とん、と当ててスタンリーは言った。

「だから、アイアン・バタフライにしたんだ。それを忘れないために」

 ルーが顔を上げる。唇の隙間からもれる息が、熱かった。

「何が真実かなんて、人様に決めて頂くことじゃない。そうだろう?」

 二人の視線が、同じ重さと温度で交わった。

 表情を崩すことなく、ルーの瞳から一雫が溢れて流れ落ちた。それはルーにとって初めての涙となった。

 それからまたしばらく穏やかな凪が訪れた。ルーは喉越しの優しいカフェオレを飲み、スタンリーはただ静かに待っていた。

「マスター」

 空になったタンブラーを前に、ルーは口を開いた。微かにかすれて、それでも芯の通った声だった。

「ありがとうございます」

 涼やかな目を真っ直ぐに一心にスタンリーに向け、ルーはそう告げた。スタンリーは薄らと笑い、小さく頷いた。

「少し、喋り過ぎたな」

 仰々しく息を吐き、空のタンブラーを取る。

「開けるぞ。椅子を下ろしてくれ」

 放ったままだったカクテルを飲み下すと、二つのグラスを流しに入れた。ルーはスツールから降り、テーブルに乗せられている椅子を取った。

「マスター、カクテルの出来は?」

 椅子を並べながら何気なくそう聞くと、スタンリーは肩をすくめた。

「あれじゃ駄目だ。締まりがない」

 それが拗ねたような言い方だったので、ルーはつい笑ってしまった。

 グラスを洗い終えたスタンリーは店の外灯をつけるためにカウンターを出た。いつの間にか日は傾き、外は薄暗くなっている。ついでに店内の明かりもつけてカウンターに戻ると、ルーが椅子を整えているところだった。

「……鉄の蝶は、その後にも見れましたか?」

 ふと手を止め、ルーは問うた。

「いや。何度か同じ場所に行ってみたが、もう見つからなかった。今じゃ新しい店か家が建ってるだろうな。……六番街も変わった」

 私たちも、とルーが囁くようにこぼす。私たちも、変わった。スタンリーを見やると、ルーの言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、ただ微かな笑みを口元に浮かべていた。

 間もなく、ドアに付けられたベルが鳴いた。久方振りの客の到来に、スタンリーとルーはわずかに心の奥が騒ぐのを感じた。

「いらっしゃい――」

 外では看板に描かれた武骨な蝶が冴えた月明かりに照らされ、晧晧と輝いていた。




アイアン・バタフライ【Iron butterfly】
鉄の蝶。偽物の羽根。真実の羽ばたき。








  了









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