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Iron butterfly : order.09 fallen angel #03


千切れた羽根は幾ばくか
血濡れの涙は如何なるか
全ての痛みを踏み越えて
反逆を統べる彼らは集う


 ベッドにうつ伏せに横たわる少女は、誰にも届かない声で歌っていた。かすれた声を上げる度に口内の傷から血が滲んだが、少女は気付きもしないように歌い続けた。夢うつつで思い出したその歌は、かつて少女の母親が歌っていたものだった。

「私の元から逃げ出した勇気は褒めてやろう。だが、おまえは私を甘く見過ぎた」

 男の声は遠くに聞こえ、少女の耳をすり抜けていく。

「これに懲りたら諦めて仕事に励むんだな、ポーシャ」

 ベッドから程近い場所で、男は上着のボタンをはめながら言った。その左頬には横に一条の古い傷跡が走っている。男は乱れた髪を整え、少女を見やる。少女は破れた衣服を体に巻きつけただけの格好で、あらぬ方向を見つめていた。

 ポーシャ――その名は捨てたはずだった。ここから出て、全てを忘れ、新しく生き直すはずだった。そうできるはずだったのだ。あのバー、アイアン・バタフライでなら――。

 少女の目に、もう出尽くしたと思っていた涙が浮かんだ。

 そう思って逃げ出した先に、何をもたらした? 素性を隠し、それでも受け入れてくれた皆に、一体何をした? ここから逃げ出したことに、一体何の意味があったというのだろう。

 骨の折れる音が頭の中にこだまし、血の赤が目の裏に蘇る。悔恨も寂寥も失意も込め、少女は一滴だけ泣いた。その雫はのたうつシーツに飲み込まれ、すぐに消えた。

「……来たか」

 ふと呟いたのは男の方だった。その直後に扉の開け放たれる音が部屋中に響き、少女は歌を止めた。

「遅かったじゃないか――ヒューゴ」

 その名が耳に届き、少女は顔を上げた。

「手厚い歓迎だな、グレアム」

 扉の前に、一人の男が立っている。ヒューゴと呼ばれたその男は静かな怒りを目に浮かべ、グレアムに真正面から対峙していた。

「――マスター!」

 少女がベッドから上半身を起こして叫ぶ。悲痛な声に男は目を向けた。

「……悪趣味だな。相変わらずだ」
「その片棒を担いでいたのはおまえだろう、ヒューゴ。私の楯として、弾丸としてよく働いてくれたじゃないか。おかげで私はここまでのし上がった。礼を言いたかったんだよ、おまえに。おまえが私から逃げたおかげで、私はより冷酷になれた」

 グレアムは右手を振り上げ、少女の頬を張り倒した。短い叫びと共に少女の体が再び伏す。グレアムは男に向かい、目を細めた。

「いい目だ、ヒューゴ。怒っているな」
「――その名は捨てた」
「捨てた? だがヒューゴ・ジャクスンの名は未だに生きている。誰がおまえをそこまで育てた? 潰れかけたゴミみたいなバーでこき使われていたおまえを拾い上げ、その名を轟かすまでに育てたのは誰だ? 腐ったチンピラになるしかなかったおまえをすくい上げたのは――私だ。そうだろう、ヒューゴ?」

 グレアムは仰々しく両手を広げ、男に囁きかけた。記憶にあるよりも幾分年長けた声が、男の脳裏をくすぐる。

 東スラムの場末のバーで酷使され、誘われるまま喧嘩に明け暮れた日々。そんな中で邂逅したグレアムは威風堂々とした迫力で他を圧倒していた。かつての自分もまたその強さに昂り、焦がれ、魅せられた。

 男は、苦笑した。

「――チンピラの方が、まだマシだ」

 あの頃の俺は、どうしようもなくガキだった。

「少なくとも、拳を向ける相手を自分で選べる」

 男は腕を上げ、敵意をほとばしらせて構えた。毅然とした目を一心にグレアムへと向けている。

「……どこまでも邪魔をする気か」

 グレアムは目に冷徹な氷を宿らせ、唇を歪めて薄らと笑った。

「ならば、正義の鉄槌を下さねばな」
「正義だと? 笑えん冗談だ」
「わかっていないな、ヒューゴ。いや、わかっているはずだ」

 右手を掲げ、グレアムは言った。

「正義とは、倫理ではない」

 指先で渇いた音が打ち鳴らされるやいなや、開いたままの扉から三人の男が部屋へ入った。

「それにしても、ヒューゴ、傷だらけじゃないか。らしくもない」

 一転して朗らかな声を出し、グレアムが壁に寄る。背を預けて腕を組むと、男を頭から爪先まで眺めた。髪は汗に絡まり、薄汚れたシャツの袖は擦り切れ、右脚にかすめた傷がズボンに血を滲ませている。目を戻し、男の右目の上にある傷が鮮やかな赤を目立たせているのを見て、グレアムは冷笑を浮かべた。

「その体でどこまでやれるかな?」

 もう一度指が鳴らされ、それを合図に三人の始末屋は歩を進めた。黒い革のグローブをはめた焦茶のスーツの男は好戦的に目を光らせ、薄墨のスーツの男がそれに追従するように懐から短銃を出す。グレアムの傍らに一人でいる漆黒のスーツの男は、様子を窺うように距離を取ったまま警戒を保っていた。

 やりにくい――始末屋たちを向かえ、男は素直にそう思った。この部屋に辿り着くまでに相手にしてきた連中とはわけが違うということを、肌で感じ取る。長引かせることも、手加減もできない。

 男は他所へ目を向けた。ベッドの上の少女が体を起こし、言葉を発せんと口を開いているのが見える。息を吸い込む瞬間を、男は見逃さなかった。

「――逃げて!」

 悲壮なまでに張り上げられた声が辺りに響く刹那前に、男は地を蹴った。少女の叫びに耳を奪われた隙をつき、薄墨の影の前へ踏み込む。一瞬にして間合いを詰められた怯みは手元を狂わせ、銃を構える指が遅れた。それは致命的な遅れだった。

 男は頑丈な体躯を俊敏に繰り、始末屋の手首を左手で掴むと、右の拳を腕に叩き込んだ。肘と手首の間から鈍い音が聞こえ、銃が床に落ちる。男に蹴られた銃はなめらかな絨毯の上を滑り、少女のいるベッドを越えて止まった。と同時に、薄墨の影は床に沈んだ。顎が砕かれ、気を失っている。そのすぐ横に、折れた歯が転がっていた。

 拳を固めたまま始末屋が起き上がらないことを確かめると、男は短く呼吸を落ち着かせ、近くにいる焦茶の始末屋に呟いた。

「……この程度か?」

 始末屋は革が軋むほど拳を握り、勢い込んで男の懐に踏み入った。その腕がしなり、拳は真っ直ぐに男の顔面を狙う。男は一歩退き、それを避けた。

 嘲笑で挑発しながらも攻撃の手は止まない。男は始末屋との距離を保ったまま近寄ろうとはしなかった。

「どうした、ヒューゴ・ジャクスンってのは腰抜けの名前か?」

 拳が空を切る重い音が男を徐々に追い詰め、グレアムとの距離を開かせる。男はなおも避け続けた。

「いつまで逃げる気だ? 後ろはもう壁だぜ」

 サディスティックな笑みを浮かべた始末屋に、男は面白くもなさそうに小さく笑った。

「鉄板を仕込んでおいて、よく吠える」

 始末屋の手が、止まった。

「どうした、打ってこいよ。――どうせ当たらん」

 激昂した拳が振りかぶられる。重い拳はそれだけに遅く、また大きく振られたがために、懐に入り込むのは男にとってそう難しいことではなかった。

 狙い通りに拳を頭上に流し、男は始末屋の腹に目掛けて脚を上げた。その膝頭が鳩尾に入り、唾液が吐き出される。体が折れて床に着くよりも先に、男は胸倉を掴まえ、引き上げた。

 その背が、一発の弾丸を防いだ。短い呻き声を聞きながら、男は始末屋を楯にしたまま銃声のした方へ向かった。

「――銃も使うのか。器用なもんだな。それに用意周到だ」

 焦茶の楯越しに相手を覗き、男が言う。漆黒の始末屋は指を引き金にかけたまま答えた。

「臆病なだけですよ」

 再び銃声。弾丸は避けた男の頬のすぐ横を過ぎた。

 焦茶の楯を始末屋に向けて突き飛ばし、男は一足に踏み込んだ。始末屋は倒れ掛かってくる焦茶の壁を避けたが、その時には振り上げられた脚が迫っていた。腕を立てて蹴りを受け止めるもバランスを崩し、一歩退く。床に倒れた焦茶の始末屋は微かにうめくだけで動かない。

 銃を構える音が、二つ、重なった。

「……あなたこそ、用意がいいですね」

 銃を持った二本の腕が、平行して真直に伸びる。どちらもが相手の眉間に照準を定めていた。

「俺も臆病なんでな」

 正確な照準はぴくりともせず、二人の目は揺るがない。耳を劈く静寂が辺りに満ち満ちた。

 その静寂に、忍び込む音があった。それは三つ目の銃が構えられる音だった。気付いたのは二人ほぼ同時だったが、二人とも動きを起こすのには間に合わなかった。

 マスター、と男を呼ぶ少女の声が銃声にかき消される。一撃の弾丸が始末屋の上着を貫き、男の脇腹を浅くえぐった。二人の照準が外れる。男はその向こうにグレアムが無表情に銃を構えているのを見た。銃口からは硝煙が立ち揺らいでいた。

 男の右目に血が流れ込む。その死角に始末屋がいることに気付くまでの隙に、始末屋は男の手を後ろに取り、床へと倒した。首筋に銃口の冷たさが突き刺さり、男は歯噛みした。

「ご苦労、エドウィン」

 漆黒の始末屋――エドウィンが頭を下げるのを見受けながら、グレアムが男に近付く。

「そいつの銃を」

 エドウィンは男の指を解かせ、その手から銃を取った。銃口を自分に向け、グレアムに渡す。グレアムは自分の拳銃を懐に仕舞ってそれを受け取った。

「……随分と飼い馴らされた始末屋だな。気の毒なことだ」

 うつ伏せに組み敷かれた男はそう言い、目の前を睨み上げる。グレアムは眉一つ動かさず、男の顔を蹴り上げた。

「……そう、エドウィンは私の尖兵だ。おまえよりも忠実で優秀な、な」

 男の銃を眺めながらグレアムは続けた。

「懐かしい銃だ。私が与えた銃だな。おまえはこれで仕事をし、最後に私を撃った」

 銃から離した指で頬の古傷を撫でると、懐かしい銃だ、ともう一度呟いた。

 未だ睨んでくる男に一瞥をくれると、グレアムは再びその顔を蹴り上げた。二度三度と脚を振る間、グレアムは表情を変えなかった。

「いい格好だな、ヒューゴ。馬鹿を繰り返した結果がこれだ」

 そこでようやく唇の端を上げ、笑った。男は血に濡れた右目を閉じ、片目でそれを睨んだ。脇に吐いた唾には血が混じっている。

「あの男……アンディとか言ったか」

 身じろぎする男に、エドウィンは腕に力を込め、銃口をきつく押し付けた。

「おまえに関わったばかりに腕を失った、哀れなバーテンダーだ。リュニオンは歯向かう者を許さない。それはおまえも知っているな。だから一年足らずであの店を出たんだろう? 恩人のバーテンダーとその娘に迷惑をかけないように店を出て、喧嘩以外で唯一得意な仕事を始めた。開店祝いに恩人の悲報を聞くのは、どんな気分だった?」

 エドウィンが更に強く男を押さえ付ける。手加減をする余裕はなかった。

「そしておまえはまた繰り返した。不用意に開いた店で、不用意に人を雇い、巻き込み、巻き込まれ、失った。何故だかわかるか?」

 グレアムは男の前にそっとしゃがむと、右目の血を拭ってやり、微笑んだ。

「おまえが無力だからだよ、ヒューゴ」

 男の身じろぎが、止んだ。

「おまえは自分の力の使い方をわかっていない。だから力を殺し、無力に成り果てた。かつておまえが恐れられた理由を思い出せ、ヒューゴ。どんな障害も処理し、始末したからこそおまえは畏怖された。力の使い方を間違えるな。おまえの力は殺し、壊すための力だ。思い出せ――」
「――やめて!」

 その声に三人の首が向く。ベッドから降りた少女が落ちていた銃を両手で持ち、グレアムに向けていた。

「……マスターを離して。でないと、撃ちます」

 引き裂かれた服から覗く裸も同然の体は、見て取れるほどに震えていた。剥き出しの肘も、あらわな脚も、緊張のあまり引きつり、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。

「銃を下ろしなさい、ポーシャ」

 グレアムは立ち上がり、少女に向き直った。

「おまえに私は撃てないよ。おまえは実の父親を撃てるような子じゃない」

 そう穏やかに呼びかけながらグレアムは足を進める。少女の照準はぶれながらもグレアムだけを狙い続けている。やめろ、とくぐもった声がした。エドウィンは手を緩めなかった。

「銃を渡しなさい、ポーシャ」
「……来ないで。本当に、撃ちます」
「無理だよ。おまえにはできっこない」

 優しげに首を振るグレアムが足を止める。

「……ごらん、ポーシャ」

 ぶら下げた腕の先で撃鉄を起こし、足元へ目を落とす。気を失っている、薄墨のスーツを着た始末屋が仰向けに倒れていた。

 銃声が響くと同時に、その体は一つ跳ねた。そしてそれきり動きを止めた。

「人を撃つとはこういうことだ」

 少女を一瞥し、もう一人の始末屋へと視線を流す。焦茶のスーツを着た彼には、まだ意識があった。

「ボ、ボス……」

 近付いてくるグレアムに、懇願するような声を出す。背から血を流しながらうつ伏せ、始末屋は腕を伸ばしてグレアムの足にすがりついた。

「……無様だな」

 銃が構えられるのを見つめ、始末屋が息を呑む。その叫び声は銃声に掻き消された。

「仕事をこなせん始末屋に用はない」

 始末屋の体を脇に蹴り、グレアムは少女に向いた。少女の手元で銃がカタカタと鳴る。グレアムは容赦なく少女へ歩み寄った。

 少女は口を開けた。

「……そうやって……」

 鼓動にさえ掻き消されそうな、微かな声だった。頬を伝った涙が、床にほとりと落ちる。

「……そうやって、お母さんも撃ったの?」

 少女の目前まで迫った父親は、目を細めて微笑むと、しっかりと頷いた。

「おまえに私は撃てない」

 そして手元の銃を少女の眉間へ向けた。

「だが、私はおまえを撃てる」

 撃鉄に、指が掛かった。

「――やめろ!」

 背後で吐き出された声が背を打つ。グレアムは銃を下げ、振り向いた。

「……まったく、おまえたちには苛々させられ通しだ」

 グレアムは右手を振りかざし、銃床で少女を殴りつけた。少女は倒れ、銃を取り落とす。続けざまにその髪を掴むと、男の元へ少女を引きずった。

「やめろ!」

 少女の髪が切れ、指に絡みつく。グレアムは少女を男の目前へ投げ捨てた。

「がっかりだよ、ヒューゴ。昔のおまえはどこへ行った? こんな小娘一人に惑わされるような男だったか?」

 言いながら、グレアムは少女を蹴り付ける。少女のか細い腕は、ほとんど楯にはならなかった。

「私の右腕として、リュニオンの歯車として働いていたおまえは、強かった。……残念だよ、本当に」

 少女の髪を掴んで脇に倒すと、グレアムは男の顔へ銃を向けた。

「お別れだ、ヒューゴ。おまえはもう死んだ方がいい」

 その言葉が耳に届いた瞬間、男は体に違和感を感じた。縛めがふっと解かれ、体が軽くなったようだった。何故そう感じたのか考えるよりも先に、男の体は動いていた。

 腕を立てて上半身を持ち上げ、思い切り地を蹴る。弾丸が脇をかすめて後ろへ過ぎた。男は右の掌をグレアムの右膝に叩き込んだ。鈍い音が手に響き、皿を割った手応えを感じ取る。床に崩れ落ちるグレアムの姿が遅々として見えた。

 仰向けに倒れたグレアムの右手首を踏み押さえ、落ちた銃を拾ってその頭へ向ける。そこでようやく、男は息を吐いた。

 銃をグレアムに向けたまま、首だけを後ろにやる。

「エドウィン、貴様……」

 グレアムが顔を上げて呟く。銃を仕舞ったエドウィンは両腕をぶら下げた格好で、怒るでも哀れむでもなく、ただ黙ってグレアムを見つめていた。

 男が顔を戻す。撃鉄を起こす音が、皆の耳に届いた。

「……殺すといい。でなければ、私がお前を殺す」
「わかってる」
「迷うなよ、ヒューゴ。獲物を前にして、おまえが迷うな。ヒューゴ・ジャクスンは迷わず引き金を引いた。――これからもな」

 銃口の向こうにいる男を見つめ、グレアムは笑った。

「さあ、私を殺せ。そして戻ってこい、ヒューゴ」

 男は両目を閉じ、大きく息を吐いた。雑音が遠ざかり、己の鼓動が浮かび上がる。その音は徐々に鎮まり、男は肩から力が抜けるのを感じた。

 男が静かに目を開ける。ゆっくりと首を横に振ると、右目から溢れた血が頬を伝い、落ちた。

「あんたで最後だ、グレアム」

 赤く濡れた目が少女に向けられる。少女は黙って男を見上げ、微かに眉根を寄せると、浅く唇を噛んだ。静寂の一瞬が過ぎる。少女は潤んだ目をそのままに、しっかりと、頷いた。

 男は頷き返し、伏せた目をグレアムに戻した。

「……じゃあな」

 そして、一際重い銃声が、グレアムの眉間を貫いた。吐き出された二つの熱い溜め息が、それを見送った。

 男は片膝を床につくと、右手の短銃を亡骸の胸へ置いた。役目を終えた銃はそこで冷たく沈黙した。

 遠くから、人の争うような物音が聞こえた。ようやく終わる。近付いてくる雑音に、男はひっそりと安堵した。

 立ち上がった男が後ろを見やる。エドウィンは先程と変わらぬ様子で立っていた。

「……借りができちまったな」

 ポケットを探りながらエドウィンに寄り、本当は殴ってやるつもりだったんだが、と呟く。男が取り出したのは、一枚の紙幣だった。

「来るつもりがあるのなら、今度はちゃんと客として来い。俺の作った不味い飯を食わせてやる」

 わずかに目を大きくするエドウィンに紙幣を押し付け、男はさっさと背を向けた。手元の紙幣にエドウィンは目を落とす。

「……脇腹も、早いうちに手当てするんだな」

 はっとしたエドウィンが顔を上げ、反射的に右の脇腹に手を当てる。上着の、弾丸に撃ち抜かれた辺りが血でごわついた。

「……あなたたちも」

 そして紙幣を懐に仕舞うと、男へ向けて一度頭を下げてから部屋を出て行った。

 立ち去る足音を背に、男が少女に近付く。少女の華奢な胸に痣が覗いた。

「……大丈夫か?」

 目の前にしゃがみ、少女の頬に手を伸ばす。触れるか触れないかのところで止められた指が震えていることに、少女は気付いた。

 少女は男の手に自分の手を重ねると、血の滲む唇の端を上げ、美しく頷いた。それを見て、男もほどけるように微かに笑った。

 部屋の外から複数の足音が近付く。二人は開け放たれたままの入口を見た。

「……よう。遅かったな、リチャード」

 現れた人影に声をかけ、男は立ち上がる。ベッドまで行くとシーツを引き剥がし、少女の元へ戻った。

「これでも急いだんだ。文句を言うなよ」

 リチャードは銃を下ろし、前後にいる男たちに手を挙げて指示した。男たちもリチャードに倣って銃を下ろす。男は少女にシーツを羽織らせて、思い出したように右目の血を拭った。そこに一人、歩み出る者がいた。

「スタンリー」

 周囲に視線を巡らせたイアンが、グレアムに目を落として言う。

「終わったのか」
「ああ」

 男――スタンリーも改めてグレアムを見、頷いた。弾丸を放った手応えを思い出し、右腕がじわりと疼いた。

「……悪いな。ファミリーでもない俺が仕留めちまった」
「いいさ。リュニオンには敵が多かったってだけの話だ。後始末はこちらで済ます。表に車を回すから、店に帰ってくれて構わない」
「助かる」
「気にするな。堅気を巻き込むのはうちの流儀に反するんでな」

 スタンリーは少女へ向き直り、膝の下に手を入れてそっと抱え上げた。少女のふくらはぎで白いシーツが揺れ、スタンリーの腕をくすぐる。

 少女はすぐ傍にあるスタンリーの顔を見上げ、微かに頬を火照らせて、真っ直ぐに言った。

「駄目です、マスター。怪我してるのに」
「大したことない」
「大したことなくないです。それくらい私にだってわかります。私、一人で歩けますから」
「……裸足で歩かせるわけにもいかんだろう」

 ぶっきらぼうにそう言うと、スタンリーはさっさと顔を上げた。きょとんとして見上げる少女の耳に、笑い声が聞こえた。

「紳士的じゃないか、スタンリー」
「うるさい」

 リチャードの笑い声を制し、足を進める。

「帰るぞ、ルー」

 腕の中からも押し殺した笑い声が聞こえ、スタンリーは足を速めた。笑顔のままスタンリーの胸に頭を寄せ、少女――ルーは目を閉じて身を委ねた。




フォールン・エンジェル【fallen angel】
@ジンにレモンジュースやペパーミントなどを加えて作る、レモン色のカクテル。
A神に反逆して天から堕した天使。堕天使。








  了









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