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Iron butterfly : order.08 fallen angel #02


折られた翼と手をつなぎ
前に進んで涙を拭う


 いつになく自分が緊張しているのを感じながら、エレナは廊下を歩いていた。いつもと同じはずのロリータクラブの廊下がいやに広く見える。それでいて、そこかしこにほつれがあるようにも見えた。堅牢な檻に入った、初めての亀裂。

 受付の横には一人の男がいた。一度深呼吸をし、歩み寄る。

「何か用か、エレナ」

 男は眉間に皺を寄せて言う。

「電話、使いたいんだけど」
「電話? どこにかけるんだ」

 男は更に不愉快な声を出した。エレナに険しい顔を向け、仕事の手を止める。

「客にかけたいの。前に一回来たんだけど、もう一押しで顧客にできそうだから」
「客だって? おまえみたいなのがわざわざ客を増やそうっていうのか? 怪しいもんだ」

 想像通り、男は疑ってかかってくる。既に頭の中に作っていた答えを吟味しながら、エレナは口を開いた。

「ようやく部屋から出られるようになったっていうのに、また逆戻りするのは御免なの。そんなこともわかんない?」

 馬鹿にするような苦笑を交えた声に、男は顔をしかめた。そのまま横に手を伸ばし、電話機を引っ張ってエレナの前に置く。

 どうも、とそそくさと受話器を取ると、エレナはついさっき覚えた番号を押した。

「相手はどんな奴だ? 相変わらずの年寄りか」
「……そうでもない。でも、シティの政治屋だよ。ボスの好みでしょ」

 呼び出し音が耳に届き、受付のカウンターに背を預ける。その背で男が仕事を再開する気配を感じ取り、エレナは隠れてほっと息を吐いた。

「――もしもし?」

 受話器の向こうから声が聞こえ、エレナは自分の心臓の響くのを感じた。

「――あ、リチャード? あたし、ヴァージン・リップのエレナだけど」

 精一杯媚びた声を出し、受話器に向かって囁く。相手がありきたりな名前であることは都合が良かった。

「誰だ? 何故この番号を知っている?」

 低い声が耳を打つ。若い男のようだが、落ち着き払った静かな声だった。

「やだ、忘れたわけ? まさかね。……今日スタンリーがお店に来るって言うから、リチャードもどうかと思って電話したんだけど」

 短い沈黙。それはエレナの耳には痛いほどに感ぜられた。

「……スタンリーに番号を聞いたんだな?」
「そう。スタンリーの奴がどうしてもあんたを呼べって言うからさ。他にも誰か誘って来てくれると嬉しいんだけど、来れそう?」

 受話器の向こうから返されたのは、笑い声だった。それも、皮肉めいた響きの。

「丁度良かった。そっちの噂を聞いて、行こうと思ってたんだ」
「じゃあ……」
「ああ、必ず行く。スタンリーにそう伝えてくれ」

 その答えを聞いて、エレナは背後に目だけを向けた。受付の男は手元に目を落とし、こちらを気にする素振りもない。

「……早いうちに来てね。今日は、忙しくなりそうだから」
「ああ、大丈夫だ。今、近くにいるんでな。すぐに着くさ」
「そう……良かった」

 それは溜め息のように心の奥底から出た言葉だった。

「じゃあ、待ってるから。よろしくね」

 再び声と顔を作り、振り返って受話器を置く。受付の男は顔を上げ、電話機を持って元の位置に戻しながら言った。

「うまくやったみたいだな」
「まあね」

 わざとうんざりした顔をして、エレナは肩をすくめてみせる。それは慣れた仕種だった。

「それじゃ」

 手をひらひらと振りながら男に背を向け、足を進める。

「――おい」

 唐突に呼び止められ、エレナはゆっくりと振り返った。首の後ろがざわついている。

「ジャンが出ていったきり帰ってこないんだが、知らないか?」

 ざわつきが肌の上を走る。まるで視野が狭まるようだった。

「……さあ。またどっかの子の部屋にでも行ってるんじゃないの」
「あいつの気に入りはおまえだろ? またよろしくやってたんじゃないのか?」

 これには本気で気分を害し、エレナは男を睨み付けた。

「あんなロリコンの相手なんてしてらんないの。あんたらみたいなクズより、客の方が金をくれるだけマシなんだから」
「おいおい、俺をあいつと一緒にするなよ。俺はおまえらみたいなガキなんて御免だ」
「ああそう、ありがたいね」

 それ以上その場にいることすら耐えがたく、エレナはさっさと立ち去った。男が鼻で笑うのが聞こえて好都合だと思う余裕もなかった。

 好きなことをぬかせばいい。あんたらの優位なんてもうすぐ終るんだ。そう言ってやりたいのをこらえ、廊下を進む。自分の部屋の扉を見つけるまでに、エレナはどうにか気分を鎮めた。辺りに誰もいないことを確かめ、中に滑り込む。扉をきっちりと閉めてから大きく息を吐き、それから洗面所のドアを開けた。

「――すぐ来るってさ」

 洗面所の中にいるスタンリーにそう告げる。一緒に隠れていたエイダがその右目の傷の手当てをしていたらしく、血のついたタオルを洗っていた。

「そうか」

 スタンリーはそれだけ言い、立ち上がった。拘束され浴室で眠るジャンを一瞥し、洗面所を出る。

「もう行くの?」

 エレナとエイダがスタンリーの背を見る。スタンリーは頷いた。

「ルーはグレアムの元にいる。だとしたら、早く行った方がいいに決まってるだろう」
「……大丈夫なの?」
「リチャードがすぐに来ると言ったんなら、俺がこれ以上待つ必要はないさ」

 スタンリーは振り返り、二人の少女を見た。

「……世話をかけたな。恩に着るよ。……必ず報いる」

 二人が言葉をかける間もなく、スタンリーは部屋を出た。扉の閉まる微かな音がやけにはっきりと聞こえ、その後に訪れた静寂が耳を射す。それを合図にするように、エレナはベッドの端に腰を落とした。膝の上の手が震えていることに、今更気付く。改めて自分のしたことを考えてか、それとも取り残された心細さからかはわからなかったが、とにかくその震えはしばらく収まりそうもなかった。

「……大丈夫?」

 エイダは身をかがめ、そんなエレナを覗き込む。顔を上げた時、エレナは笑っていた。

「平気。本番はこれからなんだから」

 控え目に笑い返したエイダは、エレナの隣に腰掛けた。

「お礼、言いそびれちゃった」

 エイダがそう言うのに、エレナは笑った。

「変わってないね、エイダ。なんか嬉しいよ」
「そうかな。エレナも、あんまり変わってないみたいだよ」
「そりゃね。変えられちゃたまんないよ」

 気が置けない会話に二人は笑い声をもらす。ようやく訪れた、一時の安息だった。

「スタンリーさん、大丈夫かな? ルーちゃん、助けられるかな」
「……あたしはポーシャはどうでもいいし、ボスがどうなろうと構わないよ。あたしとエイダがここから出られるなら、それでいい」

 震えを抑え込もうと、拳が握られる。

「……絶対に、あんただけでも助けるから。エイダはこんなところにいちゃいけないんだ」

 決意を固めるように目の前を見つめ、エレナは静かに言った。悲観や失望を飲み込まんとするその声は低く響く。

「――嫌だよ」

 固く握られた拳を、エイダの手が包んだ。

「私だけなんて、嫌だよ。エレナがいなきゃ、ここから出られたって……」

 溢れ出る気持ちを上手く言葉にできず、エイダはエレナの手を握り締める。口の中で言葉が逡巡し、なかなか声にならない。

「……私も、エレナを助けたい」

 かろうじて出た涙ぐんだ声は、エレナを包み込んだ。拳をほどき、エイダの肩に頭を乗せる。エイダもまたエレナに頬を寄せた。

 二人は掌を重ね、目を閉じた。二人の指はあまりに華奢で、寄り添うことしかできなかった。しかしそれは今の二人にとって、何よりもかけがえのない時間だった。

 しばらくの静寂が過ぎた頃、二人はまどろみの中にいた。その平穏を破ったのは一発の銃声だった。跳ね上がるように二人は顔を合わせる。その直後にも数発の銃声が鳴り響き、にわかに店内にざわめきが広がった。

 エイダとエレナは無言で頷き合った。始まったのだ。エレナが電話で呼び寄せた事態が、今、訪れたのだった。

 騒がしくかき鳴らされる足音に、叫びに似た声や銃声が重なる。

「エイダ、隠れた方がいい。誰か来るかも――」

 言い終えるより先に、洗面所からゴトリと音が聞こえた。エレナは言葉と動きを止め、そのドアを見やる。そして立ち上がると棚から鋏を取り、エイダに振り返った。何も言わず、何も待たず、ただその顔を一目見、エレナは洗面所のドアノブに手をかけた。

 ためらいを振り払い、エレナはドアを開けた。開くと同時に、眠っていたはずの男と目が合った。少女は、それに怯んでしまった。鋏を構える手は容易く掴まえられ、抵抗する間もなく捻り上げられる。鋏は床に落ち、エレナは男に突き飛ばされた。

「……こんなもんで俺に立ち向かうってのは無謀じゃねえか、エレナ?」

 エイダがエレナに駆け寄り、ジャンを見上げる。縛めを解くのに苦戦したらしく、衣服は乱れ、手首に痣が浮かんでいる。からまる髪の下で、口元が歪んだ笑みを作っていた。

「おまえの細腕じゃ、銃でもない限り俺にゃ勝てねえ。力比べじゃかなわないってのは、散々思い知らされてるだろ?」

 甲高い声で挑発しながらジャンは鋏を拾い上げた。エレナは歯を食いしばり、ジャンを睨み付けている。

 廊下でまた銃声が鳴った。ジャンはそれを聞きながら二人に目を落とした。

「何が起きてるんだかはさっぱりだが……この騒ぎなら、おまえに罰を与えても大した問題にはならなそうだな」

 鋏を逆手に持ち、ジャンは二人ににじり寄る。エイダはエレナをかばうように抱き締めた。エレナがその手を離させようとするが、エイダは動かない。

「……おまえ、新人だな? いいことを教えてやろう、この店で男に歯向かうのは――ご法度だ」

 ジャンは一気に踏み込むと、腕を大きく振るった。エレナはエイダを突き放そうとしたが、やはり駄目だった。エレナの目の前で、刃が鈍く光った。

「――エイダ!」

 その叫びに、ジャンが声を上げて笑う。エイダは左腕を押さえ、大丈夫、と繰り返した。その指先から血が滴り床を汚す。掌で覆い隠せない長い傷が真っ赤に滲み、エレナは顔色を失って唇をわななかせていた。

「いいよ、エレナ、いい顔だ。おまえのそういう顔にはそそられるよ、本当に」

 逃げ道を塞ぐようにドアの前に立ち、ジャンは更に笑う。エレナはエイダをその場に押し留め、立ち上がってジャンに対峙した。うつむいて唇を真一文字に結び、赤く濡れた手をきつく握り締めている。

「泣くのか、エレナ? 泣いてみせろよ。しばらく振りだ」

 その台詞はエレナの記憶を呼び起こし、怒りに着火した。

「――あんたみたいな奴がいるからあたしたちはいつまで経っても解放されないんだ!」

 ジャンに向かって拳が振りかざされる。しかしそれはぶつけられる前に易々と掴み止められ、返ってきたのは耳障りな笑い声だけだった。

「残念。同情するぜ、エレナ」

 鋏が振り上げられ、エレナが目をつぶる。その目尻には、悔しさのあまり涙が滲んでいた。

 刃が空を切る音が走る。

「――残念だったな」

 その音がエレナを刺すことはなかった。恐る恐る見れば、ジャンは両手を上げ、目だけを背後に向けている。いつの間にか、ドアが開いていた。

「まあ、同情する気にはなれないがな」

 ジャンの後ろから、二人の男が部屋に入ってくる。そのうちの一人はジャンの首筋に銃口を向けていた。

「代わろう」

 もう一人の男が懐から拳銃を出し、ジャンの手から鋏を取り上げた。

「リチャード、おまえは二人を」
「了解」

 目の前でのやり取りに目を奪われていたエレナがどうにか口を開く。

「……あんたがリチャード?」
「ああ。エレナだな? スタンリーはどこだ?」

 リチャードは銃を仕舞ってエイダの前にしゃがみ、ほどいたネクタイでその傷口を縛りながら早口に問うた。

「先に行ったよ。もうボスのところに着いてると思う」

 震えがちな声で言うエレナを、ジャンが睨み付ける。

「てめえ……手引きしやがったな?」
「黙れ」

 銃を構えた男がジャンの膝の裏を蹴り、その身を床に倒す。ジャンは顎を強かに打ち、呻き声を上げた。

「……そうだな、おまえに聞こう」

 男はうつ伏せるジャンの横に片膝をつき、銃を向けたまま言った。

「グレアム・リュニオンはどこにいる?」
「へ、へへ……言うと思うのかよ?」
「言わせるさ。……どうするのがいいと思う?」

 言いながら首を上げ、エレナを見る。

「……ちょん切ってやればいいんじゃないの」

 その答えに笑い声を上げたのはリチャードだった。男は小さく笑い、当のジャンは顔面を蒼白にしている。

「それもいいが、死なれては困る」

 そして鋏が振り上げられ、ジャンの右太腿に突き立てられた。ジャンの叫びは何に抑えられることもなく部屋の中を突き抜け、二人の少女の肩を跳ね上がらせた。

「言う気になったか?」

 冷ややかに問う男の眼下で、ジャンが喘ぐように息をもらす。額には脂汗が浮かび、痛みを堪えて唇が震えていた。

 男は鋏を掴み直し、徐々に刃先を広げた。溢れる血が床に広がり、ジャンの叫びが尾を引いて吐き出される。

「わ、わかった! 言う! 言うからやめてくれ!」
「おまえのボスはどこだ?」
「に、二階だ! 店の一番奥に階段があって、右側の階段を上がって突き当たりにボスの部屋が……ほ、本当だ! 嘘なんか言わねえよ! だから早くやめてくれ!」
「おまえはやめてくれと言われたら素直にやめるのか?」

 男はなおも鋏を開きながら続けた。

「護衛は何人だ?」
「ふ、二人……いや、三人だ。ボスは、今日は始末屋を一人多く呼んだから……あとは俺らみたいなのがいるだけだが銃は持ってる。でも、せいぜい五、六人だ。なあ、もういいだろ? 頼むよ、痛くて死んじまいそうだ……!」

 男は手を止めて顔を上げ、二人の少女を見た。二人ともこちらを向いてはいるが、血の気は引き、ジャンから目を離すことができなくなっているようだった。

 男は鋏を握り直した。

「……あの二人に免じてやめてやろう。感謝することだ」

 そして勢いよく鋏を引き抜くと、わめくジャンの首筋にさっさと手刀を落とした。気を失ったジャンが床に伸びるのを見て、リチャードが呟いた。

「うちのボスに逆らうなんて、浅薄だな」

 リチャードはジャンの腕を持って引きずり、再び洗面所へ運び入れた。

「ボスって……まさか、イアン・ガルシア……?」

 鋏を投げ捨て、イアンはエレナの呟きに応えた。

「もうしばらくしたら外も静かになる。そうなったら、二人で逃げるといい」

 静かにそう言い、服を整える。リチャードはすぐに戻り、ドアを閉めて懐から銃を取り出した。

「まったく、余計な仕事が増えた」

 その声に、洗面所のドアノブが撃ち抜かれる音が重なった。

「リチャード」

 イアンは少女たちに背を向け、扉へ向かった。

「了解、ボス」

 リチャードがイアンに続きながら上着の裾を払い、髪を撫で付ける。その顔は昂るのを抑え切れずに薄らと笑みを浮かべていた。

 扉の隙間に静まった廊下が見え、多数の男がいるのがわかった。皆が皆、イアンに向いて姿勢を正している。

「行くぞ」

 イアンの一言に、男たちの返事が続く。扉が閉まるまでの短い間、エレナとエイダは去っていく男たちの背を見つめていた。

 そしてまた、どこかで一際重い銃声が響いた。









  続









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