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Iron butterfly : order.04 bloody mary


私は立ち上がる 何度でも立ち上がる
たとえこの身が血を流そうとも


 開店前のバーの中では、二人の従業員がそれぞれに掃除をしていた。

「それにしても、マスター遅いですね」

 布巾をしぼる少女が顔を上げて言う。

「何か、いいお酒でも見つけたんじゃないかな? あの人、気に入っちゃうと結構粘るから」

 デッキブラシを握る青年が床を磨きながら応える。

「じゃなかったら、値切るのに頑張ってるのかもね。ああ、でも最近お客さんが増えたから、ちょっとくらいなら吹っ掛けられたって平気かな」

 外に広がる快く晴れ切った空と同じように明るい声で、青年は続けた。やんわりとした暖かい空気が店内に満ちていて、二人は穏やかに微笑んでいた。

 控え目にドアをノックする音を遮るものは、静かな店内には何もなかった。店主は元よりこの店を訪れるような客がそんなことをするわけがないと知っている二人は、反射的に顔を見合わせた。ドアに向かったのは青年の方だった。

 頭上からベルの鳴る音が弱く降る。外には一人の若い女性が立っていた。両手を下に組んだ格好で青年を見上げているその姿は、小汚いバーには全くそぐわない清楚なものだった。

「……あの、お店は夜からなんですけど……」

 ただでさえ女性の扱いに慣れていない青年は、客ではないだろうと確信しながらも、言い慣れた台詞に逃げた。

「……こちらに、スタンリーという名の方はいらっしゃいませんか?」

 返された言葉に、青年は素直に目を丸くした。

「マ、マスターのお知り合いなんですか?」
「はい。私は……」

 女性が言い終えるよりも先に、その背後で砂を踏むざらついた音が鳴り、女性は言葉を切った。青年が顔を向けると、振り返る女性の向こうに、大きな紙袋を抱えた男が立ちすくんでいるのが見えた。

「――マリア……?」
「スタンリーさん……」

 二人の声は重なり、その間を薫風が砂塵を伴って吹き抜ける。マリアと呼ばれた女性は微笑むと、丁寧に頭を下げた。スタンリーはその一挙一動から目を離すことができなかった。

 マリアが顔を上げる。スタンリーの手の中で、紙袋が乾いた音を立てた。

「捜しました。お店の名前しかわからなかったし……でも、会えて良かった」

 スタンリーはそれには応えずに、マリアに歩み寄った。

「……もう、五年になるか」

 ほんの少しの寂寞を顔に浮かべ、マリアが頷く。スタンリーは静かで親しげな微笑みを顔に浮かべた。

「いいウォッカが手に入ったんだ。寄っていくんだろう?」
「ええ、スタンリーさんさえよろしければ」
「じゃあ決まりだ。――ウィリアム」

 スタンリーは身を傾けて声を張り、マリアを店内へと招きながら言った。

「昼食を、四人分だ」

 口を開けたまま立ち通していたウィリアムは慌てて頷いた。その拍子にデッキブラシに蹴つまずいて大袈裟な音を立て、ウィリアムはスタンリーの苦笑を背にカウンターへ入った。

「私、お手伝いしましょうか?」

 こっそり笑っているマリアを隣に、テーブルから椅子を下ろしていたスタンリーが肩をすくめる。

「客はおとなしく座ってな」

 そしてマリアを座らせると、自分もカウンターに入った。

 マリアの柔らかい微笑みを受けながら、いつもより少しばかり騒がしくまかないが整えられ、まもなくテーブルには四人分の食事が並べられた。湯気立つ魚介のパスタは豊かな匂いを漂わせ、添えられたサラダの彩りと共に皆の食欲をそそった。

「ええと……ウィリアムさん?」
「は、はい?」

 唐突に名を呼ばれて驚きつつ返したウィリアムに、マリアはにっこりと微笑んだ。

「私の分まで、わざわざありがとうございます。本当に、とても美味しそう」

 この店での日常では得難い華やかさに、ウィリアムはぽかんと瞬きした。

「あと、ええと、あなたは……?」

 さりげなく視線を投げかけられた少女が、導かれるままに「ルーです」と名乗る。マリアはルーにも満面の笑顔を向けた。

「ルーさん、あなたにもお礼を言わせてください。美味しく頂かせてもらいますね」

 呆けたようにしている二人を横目に、スタンリーはくっくっと声を上げた。

「相変わらずだな、マリア。変わってない」
「そうですか? スタンリーさんもお変わりないようですけど」

 一足先にミニトマトを口に放り込むスタンリーを見ながら、そう返す。そうしてまた少し笑ってから、マリアは姿勢を正した。

「私はマリア・フェニックスと言います。スタンリーさんの……ええと、何て言ったらいいんでしょうね?」

 小首を傾げるマリアに、ウィリアムが好奇心を隠し切れない目を向ける。

「俺の、恩人の娘さんだよ」
「恩人?」
「昔のな」

 言いながらスタンリーはフォークを取り、自分の皿を引き寄せた。

「昔、スタンリーさんはうちのバーで働いてくれていたんです」
「へえ、バーで?」
「ええ。ここから南の六番街で、アッシュピットという名のお店を父と開いていたんです。そこを手伝ってもらっていたんですよ」
「あ、じゃあここと似たような感じですね」
「そうですね、ここよりも少しだけ大きくて……もっと、散らかってました。いくら私が掃除をしても、すぐに父とスタンリーさんが汚しちゃって……」
「いいから黙って飯を食え」

 ウィリアムとマリアの談笑を遮るようにスタンリーが食器を鳴らす。その正面の席で、ルーが笑い声を噛み殺していた。しかしウィリアムはめげずに続けた。

「ってことは、マスターはそこから独立したんですね。でも、どうしてわざわざこんなスラムみたいなところまで来てこのお店を開いたんですか?」

 スタンリーは口一杯に頬張ったパスタを飲み下し、顔をしかめて答えた。

「……同じ街にいい店は二件も要らないだろ」

 そして乱暴にグラスを取り、水をあおった。音を立ててグラスを置いたスタンリーの姿にマリアは細めた目を伏せ、皿にフォークを運んだ。

 食器のざわついた音に談笑を挟みながらの時間は早々に過ぎ行き、皆より先に食事を終えたスタンリーはおもむろに席を立ってカウンターに入った。

「飲むだろ?」

 振り返り、ハンカチで口元を押さえるマリアに聞く。

「じゃあ、一杯だけ」

 顔を綻ばせた返事に頷いたスタンリーは、ウィリアムの期待に満ちた目をかわし、グラスを二つ取り出した。ウィリアムは肩を落とし、空の食器を片すために立った。

 ほどなくして、スタンリーはグラスを二つ持ってカウンターを出た。半分ほど空いたテーブルに乗せられたタンブラーは赤い水面をたたえていた。マリアは眩しげに目を細めた。

「ブラッディ・マリーですか? 何だか意外だなあ……」

 皿を持ったままウィリアムが呟く。

「私と名前が同じだから……それに、色が綺麗でしょう? スタンリーさんがアッシュピットにいた頃からこればかり飲んでいるんです」

 マリアはちらりとウィリアムに目を向け、はにかんで言い加えた。

「こう見えても、結構アルコールには強いんですよ」
「そうなんですか? ますます意外だなあ……」

 ウィリアムは感心半分茶化し半分の明るい声を上げた。マリアの横に立つスタンリーが口を開く。

「俺より強いぞ、たぶん」

 横から手を伸ばし、マリアの手元に自分のショットグラスをぶつける。キン、という澄んだ音を残して、スタンリーはテーブルから離れた。呆気に取られているウィリアムの手から空いた食器を取り、ウィスキーをあおりながらカウンターに戻る。耐え切れなくなったルーが、小さく吹き出した。そしてそれを隠すように席を立ち、テーブルにはブラッディマリーだけとなった。

「俺がやる」

 食器を引き受けたスタンリーはジンジャーエールを二杯入れ、ルーに持たせた。予想外の仕向けにルーは少し首を傾げたが、目を逸らすスタンリーの意志を汲み、何も言わずにテーブルへ戻った。

「……アンディは……親父は元気でやってるか?」

 手元に目を落としたままスタンリーが呟くように訊く。

「……ええ。変わりなく」

 グラスを手の中で遊ばせているマリアが短く答える。

「腑抜けているようだったら怒鳴りつけてこいと言われました」

 スタンリーは微かに口の端を上げ、そうか、とだけ言った。

 マリアはグラスを傾け、唇を赤く濡らした。そして誰にも聞こえないように、懐かしい、と独り言ちた。

  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 それから歓談は深まり、店中に広がり満ちた。気が付いた頃には既に日が傾いていて、開店準備を始めなければならない時間は過ぎていた。

「すっかり長居してしまって……」
「いや、いいさ。久し振りに懐かしい話もできた」

 店の三人はマリアを見送ろうと席を立った。

「送るよ。この時間じゃ女の一人歩きは感心できない」
「大丈夫です。車で迎えに来てもらいますから……電話をお借りできますか?」
「ああ、カウンターの横だ。すぐにわかる」

 礼をしてマリアが離れる。そらで覚えている番号に電話しているのを、スタンリーたちは遠巻きに見ていた。

「マリアさんって素敵な人ですね」

 ふともらしたのはルーだった。重ねるようにウィリアムも口を開く。

「僕、マスターのお師匠さんにも会ってみたいですよ。アッシュピットって、六番街のどの辺りにあるんですか?」

 その言葉に、スタンリーは血色を悪くした。

「……そりゃ、無理な相談だ」

 それは、マリアよりももっと遠くを見るような目だった。

「店は、もうないからな」
「え……?」
「引退したのさ、アンディは」
「引退って……そんなお年なんですか?」

 その時のスタンリーがどこを見ていたのか、わかる人間はいなかった。スタンリーでさえわからず、敢えて言うとすればそれはきっとアッシュピットだろうと感じていた。あの懐かしい、過去の場所。

「……隻腕のバーテンダーなんて、働けるわけないだろう」

 かつての自分と、幼さの残る少女と、心から敬愛する男のいた店を、スタンリーは痛みを帯びた目で見つめていた。ウィリアムとルーはその目の色に何も言えなくなり、スタンリーもまたそれ以上語ることはしなかった。

 受話器を置いて振り返ったマリアが見たのは、さっきまでと変わらないスタンリーの姿だった。

「すぐ来るそうです。本当に、長居してしまってすみませんでした」
「気にするな。引き止めたのはこっちだ」

 スタンリーは首をすくめ、笑ってみせた。

「西スラムに車でお出迎えなんてな。珍しいもんが見れる」
「本当、そうですね」

 相槌を打ったのはルーだった。スタンリーが見ると、ルーは気丈な笑顔を浮かべていた。

「でも、一体どなたがお迎えにいらっしゃるんですか? 何だか親しそうでしたけど」

 続けて言うルーから目を戻したスタンリーは、幾分和らいだ目でマリアを見た。

「実は……その」

 当のマリアは言いよどみ、目を逸らしてうつむいた。しかしすぐに意を決したように顔を上げ、はにかんで微笑んだ。

「……私、結婚するんです。迎えに来てくれる人と」

 驚いて表情を固める三人の中で、まずウィリアムが破顔した。

「おめでとうございます! お相手はどんな方なんですか?」
「そうですねえ……とても真面目で、頼りになる人です。父も認めてくれて……郊外の方で、一緒に住むことになっているんです」

 続いてルーが明るい笑顔を見せる。

「おめでとうございます。お幸せになってくださいね」
「ええ。ありがとうございます」

 そして最後に、スタンリーが目に深い色を浮かべながら言った。

「……おめでとう、マリア」

 マリアはその言葉に、深く、深く頷いた。

 店内に射し込んでいた夕日影が滲み消える。日が沈んだ一時の静寂の間に、遠くから聞こえる自動車のエンジン音が届いた気がした。薄暗がりの中で、マリアはわずかにうつむいた。

「――マスター、外までマリアさんを送ってあげてください」

 ルーは姿勢良くそう言うと、しっかりとした面持ちでスタンリーを見上げた。

「もうそろそろお客さんが来ちゃうし……お店の準備は、私たちがやっておきますから」

 顔を向けたスタンリーは、密かに息を呑み、ルーを見たまま答えた。

「……悪いな」

 ルーは確かに頷き、マリアに笑みを向けた。

「それじゃあ、マリアさん。お会いできて、とても楽しかったです」

 一瞬の間を置いて、マリアも笑みを返す。

「こちらこそ。スタンリーさんを、よろしくお願いしますね」
「マリアさん、お元気で」

 ウィリアムもまた笑顔となり、そんな二人にマリアは丁寧に頭を下げた。

「お二人とも、お元気で。今日は、本当に、ありがとうございました」

 その言葉を最後に、マリアは店の扉を開けた。スタンリーが続き、ベルの音色を残して扉が閉まる。店内に残された二人は、しばらくの間黙って扉を見つめていた。

 店の外は思いの外暗く、二人に残された時間の少ないことを告げていた。

「……結婚なんて、驚いたでしょう? スタンリーさんといた頃は、ほんの子供でしたからね」

 苦笑を交え、マリアが呟く。

「早いな」
「ええ、本当に……」

 手持ち無沙汰な様子のスタンリーが腰に手を当て、靴越しに砂の感触を確かめるように足を動かす。腕を組んだところで、マリアの声がした。

「きっと、もうスラムに来ることはないから……」

 マリアは真っ直ぐに前を見つめている。

「最後に、会っておきたかった」

 初めて見せる物憂げな表情をスタンリーに向ける。スタンリーは視線を返すことはせず、車を待つように遠くを見た。

「……幸せになれよ。旦那に、しっかり幸せにしてもらうんだ」

 まるで月明かりが眩しいとでも言うかのように目を細め、そんなことを呟く。マリアはスタンリーを見つめたままで続けた。

「……あまり、自分を責めないでください。私も父も……そんなことは望んでいません」

 動きを止めたスタンリーは、微かに首を横に振った。右腕を握る左手に力がこもる。

「アンディの腕は……もう、戻らない」

 喉の奥から、声を絞り出す。スタンリーはもう一度頭を振り、深い悔恨の溜め息を吐いた。

「あれは、俺が……」
「――スタンリーさん!」

 マリアはそんなスタンリーの腕を掴み、力尽くで自分に向けた。驚いたスタンリーが怪訝な表情を浮かべる。

「そんなこと、今更言ったってどうにもなりません」

 自分の目を射るマリアの視線に、スタンリーは引き付けられる。

「私は幸せになります。父も幸せにします。だから、スタンリーさんも幸せにならないと許しません。そんな甘えたことを言って幸せになることから逃げるスタンリーさんを、私たちは許しません」

 そのマリアの激しい口調は、スタンリーの記憶を揺さ振った。いつか見た、幼い少女の厳しく優しい声が脳裏に蘇り、スタンリーはつい口元を緩ませた。

「……やっぱり相変わらずだ」

 そして小さく笑うと、真っ直ぐにマリアを見返した。

「相変わらず、おまえのところの血筋は強い」

 苦笑にも似た面持ちに、マリアは肩の力を抜いて笑い返した。

「ええ、その通りです。だから、スタンリーさんだって大丈夫です。私たちの大事な家族なんですから」

 語尾が自動車のエンジン音に重なったが、スタンリーにはよどみなく聞こえた。

「まあ、どうにかやってみるさ」
「その意気です」
「アンディによろしくな」
「ええ」
「いい車だな」
「ありがとう」

 ゆっくりと近付いた自動車は二人から少しだけ離れたところに停まり、運転席の男が姿を表した。マリアの言った通り、誠実そうな雰囲気の若者だった。青年はスタンリーに会釈をし、スタンリーもまたそれを返した。

「マリア」

 すぐ隣にまでしか届かない声で、スタンリーが呟く。

「……いい女になったな」

 柔らかく吹き出したマリアはくすぐったそうに破顔一笑した。

「ありがとう」

 万感の思いを込め、マリアが言う。そして夫の元へ駆け寄ると、舞うように振り返った。

「――さようなら」

 スタンリーが頷く。

「ああ。……さようなら」

 マリアと夫は揃ってもう一度頭を下げ、車に乗り込んだ。その姿が闇夜に溶け消えるのを見届け、スタンリーはひっそりと息を吐いた。その向こうには、店に通う常連の姿が小さく見えていた。




ブラッディ・マリー【bloody mary】
@ウォッカとトマトジュースで作る、健康的なカクテル。
A血塗れのマリー。








  了









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