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sweet sleep

 霜の匂いを伴った風に背を撫でられた時、少女はひとりだった。少女は空腹で、粗末な着衣に身を包み、長く美しい金髪と瑠璃色の瞳を持っていた。
 その街には朽ちた建物が溢れ、孤児で満ちていた。少女もそんなひとりで、その目前の建物もそんなひとつだった。
 いつ崩れたかも判らないような廃墟へ足を踏み入れた少女は、まるで宝探しか何かのようにわくわくしながら視線を巡らせた。
 少女が目に止めたのは、一冊の本だった。すっかり埃をかぶって酷い有様だったが、かろうじて本であることはわかった。
 埃を払ってみると、深緑の革張りの表紙が覗いた。赤茶けた革紐で留められているそこには何かの文様が型押しされていて、いかにも高価そうに見えた。
 少女は字を読むことができなかったが、もの珍しさと好奇心に背を押され、革紐を解いた。
 本をぱらぱらとめくると、微かな風が少女の手をくすぐった。不思議と、その風には温もりがあった。そのうちに風は渦を巻き、埃を伴って白い塔となった。
 風の塔は勢いを増して伸び、驚きで見開かれた少女の目も耐え切れずにきつく閉じられた。本を取り落とさないようにするので精一杯だった。
 次に目を開いた時、少女が見たものは白いふさふさした塊だった。それがもぞもぞと動き出したので、少女は短い悲鳴を上げて本を放り出した。
 それと同時に、少女以外の誰かの声が、ぎゃっとわめいた。
「まったく、危ないことを してくれるじゃないか」
 むくりと起き上がった塊は、そう呟いた。
「おまえさんからしてみれば大した高さじゃないんだろうがね、俺にしてみればそりゃあ危ないってもんだ」
 少女の前に立つそれは、少女の掌を少し上回る程度の大きさがあった。白い塊と見えたのは、どうやら髪の毛のようだった。
「あなた、だあれ?」
「さてね、名前なんて忘れちまったよ。もうしばらく本の中にいたからな」
 しゃがんでよく見てみると、真っ白な髪に隠れて、真っ赤な目が見えた。肌は本の表紙のように緑がかった黒であるが、顔立ちは決して恐ろしいとか不気味というのではなく、むしろ愛嬌があった。
 驚きこそしぶとく居続けたが、少女はそれを笑顔で受け入れた。
「じゃあ、私がつけたげる。あなたはニックよ」
「ニック?」
「私のパパの名前。素敵でしょ?」
「パパ?」
「そうよ。会ったことがないから、私がつけたの。パパがニコラスで、ママがアレクサンドラ、私はルーシィ」
「ふむ、まあ、悪い名じゃあないな」
 ニックと名付けられたそれは、満更でもないふうの表情で頷いた。
「じゃあルーシィ、俺がおまえさんの願い事を三つまで叶えてやろう。名と、本から出してくれた礼だ」
「願い事って?」
「何でもいいさ。俺は大抵のことは何でも叶えられる。とりあえず、言うだけ言ってみろよ」
「ニックって、魔法が使えるの?」
「ああ、そうだとも」
「魔法が使えるのに、本から出られなかったの?」
「俺の力は俺のためには使えない。そういうもんなんだ。だからずっとひとりで本に閉じ込められてた」
「そうなんだ。じゃあ、いいことしたんだね、私」
「ああ、いいことだとも。さあ、願いを言ってくれ。何が欲しい? どうしたい?」
 ルーシィは首を傾げて考えた。今日はパンを拾えたし、服にできそうな布もある。喉の乾きには川があるし、欲しいものが思い浮かばなかった。
 考えるのを止めてふと息を吐くと、ルーシィの脳裏に願い事が降りてきた。
「ニック、お願い」
「ああ、何なりと」
「私とお友達になって」
「お安い御用さ。俺の力があれば何だってちょちょいのちょいだ。……ところで、友達ってのはどうやったらなれるんだ?」
 聞いたこともないような願い事に、ニックは応えてから面食らった。
 ニックのとぼけたもの言いに、ルーシィは楽しげに声を上げた。
「こうすればいいのよ」
 ルーシィはにっこりと笑うとニックに顔を近付け、そのままニックの小さな頬に唇を当てた。
 ニックは更に面食らい、いっぱいに見開いた目で、ルーシィを見上げた。
「これでお友達、ね」
「あ、ああ、そう、なのか」
 ニックは呆けたように頷いた。
「寒くなってきちゃった。帰ろう、ニック」
 ルーシィはそっとニックを掴み上げると、抱き寄せるようにして自分の住処まで駆け足で帰った。
 帰るとルーシィは裸同然のニックのために、ぼろ布で洋服を作ってやった。
 決して良い出来と言える服ではなかったが、ニックが誰かから施されたのは、これが初めてだった。
 二人になっての生活は悪いものではなかった。ニックは食事を必要としなかったし、寒がりもしなかった。ルーシィも満足しきった様子で、ひとりではできない遊びを沢山持ち掛けた。
 かくれんぼはニックが圧倒的に上手かったが、時折わざと見つかったり、見つけられない振りをすることでルーシィを笑わせた。
 しかしその日の冷え込みは久方振りに厳しいもので、ルーシィは寝床に入ったきり毛布を手放さなかった。
「ニックも入る? そうすれば、もっとあったかいかな」
 ニックは特に寒さを感じなかったが、言われた通り毛布にもぐり込んだ。
 ルーシィの溜め息が、白くけぶってニックの頭を撫でた。
「お腹いっぱいに、あったかいものが食べたいなあ」
 ニックはその独り言を聞き逃さなかった。
「そういうのならわかりやすい」
 ニックは毛布から素早く抜け出ると、ルーシィの鼻の先に立ち、すっと手を上げた。
 ルーシィの前で、風が渦を巻いた。それはたちまちに強まり、ルーシィは目を伏せた。
 目を開けるより先に、食欲をそそる匂いがルーシィに届いた。
「わあ!」
 すぐ前に広がる光景に、ルーシィはぱっと飛び起きて大喜びした。
 湯気を立てるチキンに焼き立てのパン、深皿になみなみと注がれたスープまであった。
 柔らかに漂うそれらの匂いに、ルーシィの空き腹が鳴いた。
「すごいすごい! ニックが出してくれたの?」
「ああ、そうだとも。おまえさんの願い通り、腹一杯に食べるがいいさ」
 ルーシィはそこかしこに並ぶ様々な皿に飛び付いた。これまでにこんなにも沢山の食事にありつけたことがなかったので、どれもこれもに手をつけた。満足のいかない味は、ひとつとしてなかった。
 孤児ばかりのこの街でそんな食事をしていれば、目につかないはずがなかった。
「おい、何だよそれ。盗んできたのか?」
 新しいパンに手をつけたルーシィが声に振り向くと、褐色の髪をくしゃくしゃにした少年が裸足で立っていた。ルーシィの見知った顔だった。
「違うよ、ニックがくれたの」
 訝しげな少年の目付きがルーシィの指す辺りをぎろりと睨んだ。それに射抜かれるのを嫌ったニックは、素早く毛布の中にもぐり込んだ。少年はそれを見逃した。
「まあ、おまえに盗みなんてできっこねえだろうけどな」
 ルーシィは手元のパンをじっと見つめると、ほんの少しのためらいを隠し、少年へと差し出した。
「ジャックにもあげる」
「へえ、おまえが俺に? そりゃ、どういう風の吹き回しだ?」
「これ食べたら、いじめないでくれる?」
「俺がいつおまえをいじめたって?」
 ルーシィはうつむき加減に唇を噛んだ。それは怯えているようにも見えたので、ニックは少年――ジャックを避けて正解だったと感じた。
「いじめてやしないだろ。あれはただ、からかってるだけだ」
「いいから、これ、あげる」
 半ば押し付けるように、ルーシィはジャックにパンを渡した。
「いいぜ、もらってやるよ」
 まだ温もりのあるパンの匂いに、ジャックは目を細めた。久し振りの温かい食事であることは、少年も少女も同じだった。
「それじゃあ、今日はおとなしく帰ってやるよ」
「他の人のもの、盗んじゃだめだよ」
「うるせえな」
 ジャックはルーシィをひと睨みすると、パンを頬張りながら自分のねぐらに引き上げて行った。
 それをしっかりと見届け、ニックは毛布から顔を出した。
「何なんだい、あの野郎は」
「ジャックのこと? 私と同じだよ。ここでひとりで暮らしてるの」
「いつも、あんなふうに口が悪くて、無愛想で、癪に障るようなやつかい?」
「……よくわかんないけど、ちょっと、こわい、かな」
 満腹になった体で残った食べものを寝床の片隅に寄せると、ルーシィは毛布に戻った。
「良くないね、ああいうやつは」
「うん、でも、私と話してくれるのって、ジャックくらいだから」
 不機嫌そうに鼻を鳴らすニックに、ルーシィは笑いかけた。
「ニック、ありがと。お腹いっぱい」
 二人はまた一緒に眠ることにした。
 ニックは再びとして会いたいとは思わなかったが、それから数日でジャックはルーシィの元を訪れた。
「借りを作るのは好きじゃねえんだ」
 ニックはまた毛布の中に隠れ、こっそりと、二人の様子を窺っていた。
 持っていたパンを無造作に放って寄越すと、ジャックは皮肉な笑みを浮かべた。
「どうせおまえはろくに仕事もできないし、こうでもしてやらなきゃすぐにでも死んじまうんだ」
 自分の施した恩ですら、ルーシィはすぐに忘れてしまうことを、ジャックはよく知っていた。
 パンを受け取ると、たちまちのうちにルーシィの満面に笑みが浮かんだ。
「ありがと、ジャック」
「借りを返しただけだ」
 ルーシィは笑顔のままで足早に寝床へ引き返し、ぺらりと毛布をめくった。驚いて、ニックは身を引いた。
「ニックが出してくれたものでもらったんだから、これはニックのだよ」
 そう言ってパンを差し出し、ルーシィは顔を綻ばせた。
 ニックは込み上げてくる思いを隠し切れず、つい、毛布から出た。手を伸ばし、いささか大き過ぎるくらいのパンに触れた。
 そして、覗き込んでいたジャックと目が合った。
 初めて見るニックの姿に、ジャックは飛び退いた。
「おまえ何考えてんだ、そんな化け物に!」
 荒げた声に、ルーシィはパンを取り落とした。
「ニックはばけものじゃないよ、私の友達だよ」
「何が友達だ、そんな気持ち悪いやつが! 殺されたって知らねえぞ!」
「ニックはそんなことしないもん! 友達だもん! 何でも叶えてくれるんだよ!」
 惑いと脅えとに塞がれたルーシィは、ニックへ向き直った。
「ニック、お願い。パパとママに会わせて。ニックは何でも叶えられるんでしょ?」
 ああ、とニックの口から声が漏れた。それは同意ではなく、嘆息だった。
「駄目だ、駄目だよ、ルーシィ。それはできない」
「どうして、ニック!」
「駄目なんだ、俺の力はそういうことには使えない。時間はいじれないんだ。おまえの両親はもうこっちにいないんだよ、ルーシィ。俺の力が働くのは、俺にできるのは――」
「そら見ろ! やっぱり化け物だ! そいつに願い事なんか叶えられっこないんだ!」
 いきり立ったジャックはルーシィを強く引き寄せた。
 ルーシィはジャックにすがりついた。おかげで振り上げられた脚はニックには当たらず、地面を削って砂埃を巻き上げただけだった。
「ルーシィ、止めるな!」
「やめて、やめて!」
「ここから消えろ! 俺たちの前から消えやがれ、化け物!」
 ジャックの怒号の意味を、ルーシィは理解できず、ただ目をつぶってわめいた。
「ニックのこと、そんなふうに言わないで! ばけものなんて言わないで! ジャックなんか、ジャックなんか――」
 俺にできるのは形あるものを変えたり出したり消したりすることだけ、というニックの声は聞こえなかった。
「そんなこと言うジャックなんて嫌い! ジャックこそいなくなっちゃえばいいんだ!」
 それならできるとばかりに、ニックは手を掲げた。
 いつもの風が起こり、それがジャックにまとうのから、ルーシィは目が離せなかった。ジャックは何が起きたのかもわからずに、ただ見開いた目でルーシィを見ていた。
 渦が弱まり、ルーシィが膝を着く音が、辺りにこだました。凪いだ風はかけらも残らず、ジャックの姿も消えていた。
 自分がどうして転んだのか、ルーシィにはしばらくわからなかった。
「――返して」
 永久とも思える時が過ぎ、胸を締め付けるほど弱々しい声が、ルーシィの口から漏れた。
「返して、ジャックを返して。元に戻して」
 熱に浮かされたように、ルーシィは呟き続けた。
 何度繰り返しても、願いはもう残っていなかった。
「どうして泣くんだ、ルーシィ。願いは叶ったのに」
 力の抜けたルーシィの体は、そのまま冷たい地に伏した。
「元に戻して」
「ルーシィ」
「返して」
「ルーシィ」
「ジャック」
「ジャックはもういないよ」
 虚ろな目のルーシィは、ありったけの涙をこぼしながら消えた者の名を呼び続けた。
「ルーシィ、俺は願いを叶えたんだ。いつもみたいに笑ってくれよ。俺を見て、笑ってくれよ」
 どれほど近くで呼びかけようとも、その声は決してルーシィには届かなかった。
 闇雲に泣き明かしたルーシィは、ぐったりと伏したまま動こうとはしなかった。その隣には手もつけられていないパンが転がっていた。
「ジャックに会いたい」
 ルーシィの息は真っ白で、雪の気配の合間を縫った。
「ジャックのところに行きたい」
 ルーシィの目は真っ赤で、涙はもう涸れていた。
「パパ、ママ……」
 ルーシィの途切れがちな声を、ニックは聞きつけた。
 それなら叶えられる――ジャックのところへ行けば、きっとパパとママにも会えるだろう。ジャックとニコラスとアレクサンドラは、きっとルーシィを温かく迎えてくれるだろう。
 ニックはルーシィからもらった服を脱ぎ、丸めた。泣き疲れて眠ったルーシィの口元に立ち、丸めた服で鼻と一緒に押さえた。全身で、力一杯押さえた。雪の降る音が聞こえるようだった。
 ルーシィの願いは叶った。
 ニックは自分の願いを叶えてくれる者がいないことを恨んだ。
 服をその場に捨て置くと、ニックは歩き始めた。ルーシィと初めて出会った廃墟に着くと、歩みを止めた。
 自分の封じられていた本を開くと、背で押さえるようにして間に入った。
 ひとつ目の願い事を思い出したニックは、ルーシィの方を振り返った。その顔が穏やかなことだけが、救いだった。
 ニックは目を閉じ、本を閉じた。再び、永い眠りが始まった。

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