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 僕は朝、目が覚めることが嫌いだ。何故かというと、目覚し時計の音が嫌いだからだ。憎んでいる、と言っても過言ではない。あのジリジリと泣き叫ぶうるさい奴を、僕は何度殴り、蹴り、叩き壊そうと考えたことか。時計に恨みはないが、あの音を発する限り、僕は目覚し時計とは蜜月にはなれそうもなかった。
 階下へ降りると母親の後ろ姿が見えた。うちの母親はいつもせわしなく台所中を駆け回っている。スリッパの跳ねるパタパタという音が聞こえれば、そこにいるのは必ず母親である。特に忙しくない朝でもそうだから、あれはきっと癖のようなものだと思う。
「早くご飯食べちゃいなさい」
 僕は特に急ぐことなく体に優しいペースで朝食をとった。いつもの朝の我が家の風景だ。お互い慣れたものである。
 登校の準備を終えて外に出た僕を迎えたのは、悩ましいほどの晴天だった。幸い僕の通う高校は徒歩圏内に建っているので、夏でも汗が流れ落ちる前には教室に入ることができる。
 教室には音が渦巻いていた。不思議なのは、教室にいる誰もがこれを騒音と思わないことだ。
「おはよう、晋吾」
 僕は手を挙げて挨拶を返した。浅川雅道という名の渦の目は、近所に住む同級生であり、幼馴染みである。雅道は音の渦から離れると、教室の窓際、一番隅の僕の席に座った。椅子にではなく、机にである。
「暑いな、今日」
 朝も早くから部活動に勤しむ雅道は、年がら年中暑そうに見える。
「相変わらず、年季が入った携帯だな」
 まあね、と頷く。僕の使っている携帯電話は、型としてはなかなかの年代ものである。僕にしてみれば何の問題もなかった。
「目覚し時計がうるさいんだ」
 僕には脈絡なく会話を始める癖があったが、雅道は慣れたもので動じずに返事をする。
「そりゃ、うるさくなきゃ意味ないだろ」
「僕の頭の中じゃ、うちのやつはもうスクラップになってるよ」
 雅道は快活に笑った。
「じゃあ、その携帯でタイマーでもかけておいたらどうだ? 気に入った音楽で目覚められるようにさ」
 そこまで話したところで、担任が教室へ入ってきた。いつのまにかチャイムが鳴っていたらしい。挨拶もそこそこに点呼が始まる。
「浅川」
「はい」
 担任が呼ぶ度に、はい、はい、と皆がそれぞれの声で応える。はきはきとしている声からだるそうな声まで、様々である。
「高城」
 数人を挟んで僕の名が呼ばれる。僕は黙って手を挙げた。担任は次の名を呼んだ。
 僕は、声が出せない。
 精神的な問題ではない。肉体的な問題だ。僕は生まれつき喉が弱く、それでも喋ることに不便はなかったのだが、最近新たな障害が立ち塞がった。その手術のために長く学校を休み、その手術のために声が出せなくなった。耳は問題なく機能するので、どうにか同じ高校に通い続けている。これからどうなるかは、正直わからない。
 昔から喉を大事にしろと医者と親に言われ続けた僕は無口な性質に育ったので、周囲が懸念していたほどの不便はなかった。しかしそれでも日常に会話は不可欠なようで、僕は新たな会話方法を身につけなければいけなかった。
 そして僕は携帯電話のメール機能で会話をすることを覚えた。とは言っても誰かの携帯電話にメールを送るわけではない。メールの本文に言いたいことを打ち込み、送信せずに隣にいる人間に見せるのだ。これは案外便利な方法で、慣れれば筆談よりも速く、ゴミも出さずに会話をすることができる。もちろん、文章は実際に送信することなく消去してしまうので、金もかからない。以前使用していた頃よりも経済的なくらいだった。僕はこの会話方法に頼り切っていた。おかげで打つのがやたらと速くなった。
 一人の生徒が声を出せなくても、授業は何の滞りも見せずに進んでいく。年輩の教員が日本の歴史を語っている。僕はそれを聞きながら、もとい聞き流しながら、机の端をコツコツと叩いた。
 これは、声が出なくなってから僕についた手癖だ。机でも壁でも、固いものを片っ端から指で弾く癖である。例えば携帯電話の操作音が止んだ後、本体の裏、バッテリーの入っている辺りを爪で鳴らし始める。例えば授業中の教員が黒板にチョークを走らせる音の隙間に、僕は机を弾く音を忍び込ませる。僕はそういうふうにして、コツコツという硬質的な音を出し続けた。近くの席で真面目に授業を受けている人間にとってははた迷惑な話であろうが、苦情を受けたことはない。こんな些細な音は、誰の耳にも届いていないのかもしれない。
 一日の授業が終わると、雅道が家へ誘ってきた。彼はちょくちょく家へ友人を招く男で、その目的は翌日の授業用の予習であることがほとんどである。翌日指名されるであろう状況になると、こいつはいつも僕のノートを当てにするのである。それで問題が起きないのは、ひとえに雅道と、僕の、人徳の成せる技であろう。
 浅川家は我が家よりも清潔感がある。たぶん、母親の性格の違いによるものではないかと思う。スリッパから壁掛けまで、抜け目がない。
「いらっしゃい、晋吾君。お世話になるわね」
 穏やかな声に頭を下げながら、僕は自分の仮説に自信を持った。
 二階にある雅道の部屋へ向かう途中、僕は居間の一角を見た。この家にはピアノがある。グランドピアノと呼ばれる大きなものとは違い、浅川家にあるピアノは奥行きのない、角張った形をしていた。雅道に訊いた時に、それはアップライトピアノと呼ばれる比較的安価なものらしいと説明を受けたが、雅道自身よくわかっていないようだったし、あまりよく覚えていない。印象に残っているのは、やけに頼りなく、ひっそりとした佇まいだった。沈黙を続ける黒い箱は、長い間僕の頭の中に残った。そして浅川家を訪れる時は、一度は必ずそこに目をやった。そして、そこから流れる音と振動を想像した。
 部屋に入るとすぐに、雅道は僕のノートを切望した。次いで、信仰した。
「やっぱり、持つべきものは友達だよな」
 このシチュエーション以外では聞かない台詞である。僕は笑って、早くやれ、と顎をしゃくってやった。
 雅道がノートの内容を粗い字で写し終える頃、ドアをノックする音が耳に飛び込んできた。僕は手元の文庫本から目を離し、雅道の母親が部屋へ入ってくるのに備えて体勢を整えた。
 ところが、入ってきたのは別人だった。
「あれ、母さんいねえの?」
「今日からパートだよ。はい、お茶」
 薄らと汗をかいたグラスが二つと木製の器に盛られた菓子が、お盆から降ろされる。会釈して礼を言うと、僕よりも丁寧な会釈と笑顔が返された。そして立ち去り姿を消すまで、僕は目を離さなかった。
「どうした?」
「おまえの妹、いつあんなに成長したんだ?」
「おいおい、急にでかくなったみたいな言い方するなよ」
「でも」
「そりゃ、会うのは久し振りだろうけどさ」
 言葉を続けて打つより先に、画面を覗き込んでいる雅道が言う。
「でも、あんまりおまえと似てないもんだから」
「そ、そりゃ……」
 続いた文章に、雅道は口篭もった。
「……ちょっと、そういうところはあるけどさ」
 雅道の語気が、しょんぼりといったふうに下がる。僕は少し笑った。
 正直なところ、彼女の印象は薄い。子どもの頃の僕は雅道に引っ張られて外で遊ぶことが多かったし(とは言っても鬼ごっこなどの激しい動きが必要な遊びは見学専門だったが)、美音子は積極的に他人と話そうとするタイプではないようだった。そういう意味で僕らは似ていたが、それを確かめられるほど時間を共にしたことはなかった。
 雅道が自分の仕事に戻ると、階下からピアノの音が聞こえ始めた。僕は片手に喉を潤しながら、黒い箱と黒髪の少女を頭に描いた。
 雅道が仕事を終え、菓子が切れた頃(ほぼ雅道が一人で食べた)になると、外にはもう夕闇が迫っていた。僕は浅川家の主婦が帰宅するより先に我が家へ帰りたいと思っていたので、お暇をすることにした。この家に長居していては、いつ夕食が出されるかわからないのである。正直を言えば美味この上ない食事にはあやかりたいが、後々に我が家で聞かされるお小言を思えば、どちらが得策かは見えている。非常に残念ながら、僕は雅道に帰宅を告げた。
「それじゃ、また明日な」
 雅道の台詞に手を上げて応える。居間を覗くと、美音子がピアノの前に座っているのが見えた。こうも長い時間弾いていて飽きたり疲れたりしないものかとも思ったが、僕が口を出す問題ではないという自覚もあったので、ただ黙ってその背中を一瞥した。そしてその振り返りそうな気配に背を押され、僕は浅川家を出た。
 涼しい夜風が吹いている。僕は目をつぶってみた。喋ることも見ることもできない、完全に受動的な存在になる。
 民家から漏れ聞こえるテレビの音、近所の中学生の練習するつたないギターの音、遠くに電車の走る音、自動車のエンジン音、犬の鳴き声、話し声、笑い声。
 静かに思える夜にも、音の渦は潜んでいる。
 そしてそんな雑音の隙間に、僕はピアノの旋律を聞いた。そう離れた場所で鳴るものではないはずなのに、それでもその響きはひどく遠くから聞こえるようだった。
 僕は、音の渦の中で孤立していた。
 それを打ち破り、僕を現実に引き戻したのは、背後から迫るクラクションの音だった。反射的に端へ避けたそのすぐ横を、自動車が走り抜ける。
 車に音をさらわれてしまったような静寂。その中に、僕の鼓動だけが鳴り響いていた。
 一度深呼吸をしてから、僕は足を進めた。文句の一つも言えなかったのが、僕の中に澱のように残る。低速で走る自動車に八つ当たりしそうになり、僕は足を速めた。
 ただいま。
 口の中でそう言い、家へ入る。台所に、母親の相変わらず忙しそうにしている姿が見えた。食事の用意はできていた。
 た、だ、い、ま。
 そう言うように、壁を四度叩く。そこでやっと僕の存在は認められた。
「ああ、おかえりなさい。よかったわ、冷める前に帰ってきてくれて」
 僕は小さく苦笑し、制服のポケットを探った。
 そして、凍りついた。
「どうしたの? 早く着替えてきなさい」
 母さんの声が耳を素通りする。
 ――ない。僕の声が、ない。
 僕は家を飛び出した。母さんの制止は聞こえなかった。
 声は、すぐに見つかった。高速で走り去った車とすれ違った辺りに、僕の声は、落ちていた。
 無残にも破壊された姿で。
 落としただけの壊れ方ではなかった。それだけではこんなふうになるはずがない。僕はもう一台すれ違った車があったことを思い出し、肩を落とした。
 壊れた携帯電話を手に取り、見る。潰れたボタンをいくら押してみても、ひびの入った画面には何も映らなかった。
 気がつけば、僕は朽ちた携帯電話をアスファルトの地面に叩きつけていた。衝動に駆られた行動は、僕の言語機能を粉々に粉砕した。プラスチックの割れ砕ける音が、いつまでも僕の耳にこだました。

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