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幸せを手に入れる最も簡単なレシピ

 お菓子作りの成功の秘訣は、しっかりと計量すること。幾度とない失敗を繰り返して学んだ最大のポイントだ。あとはまあ、きちんとレシピに従うこと。
 きっちり25グラムに計ったバターを耐熱ガラスのボウルに入れて、水も100cc計り入れる。バターと同量に計った薄力粉をふるいに入れて、ちょっとだけ加えて、あとは適当に混ぜてレンジに放り込む。3分。
 その間に携帯電話に手を伸ばし、電話を一本。相手はすぐに出てくれた。
「もしもし、カズミ? まだ家にいるよね?」
 気心の知れた相手なので挨拶もそこそこに言う。彼女が住むのは近所だ、お昼過ぎに来るとしても仕度の途中かこれからか、そんなところだろう。
「うん、買ってきて欲しいものがあってさ。……や、ご飯は大丈夫。リエがベーグル買ってきてくれるって。……そうそう、駅前のパン屋さんの。なんかね、新作出たんだって。生地に紅茶使ってるとかで気になるよねーって話して」
 そうこう喋っているうちにレンジが鳴いたので、ボウルを取り出して残りの薄力粉を追加する。片手で使えるふるいで良かった。今度はゴムべらでしっかり混ぜて、またレンジにかける。20秒。
「んでね、ジャムか果物買ってきて欲しくて。……ないならないでいいんだけどさ、生クリームしかないから。あった方がおいしいと思う」
 取り出して、混ぜて、レンジへ。
「うん、飲み物買うついででいいからさ。コンビニじゃなくてスーパー行くでしょ? あそこ青果コーナーあるし」
 取り出して、混ぜて、レンジへ。
「うーん、イチゴがいいかなあ。……いやいやいや、そんなにいいの買わなくていいよ。高いし。小振りなのでいいから、1パックお願いしますよ」
 取り出して、混ぜて、レンジへ。
「あー、大丈夫、のんびり来てよ。明日も休みでしょ? 帰り何時になっても平気だからさ。うん、はい、じゃあ待ってまーす」
 携帯を切る頃にはしっかり混ぜ終えた生地ができつつあった。この時点で結構いい匂い。バターは偉大だ。卵をひとつ割りほぐして、加えながら混ぜていると、今度は電話がかかってきた。
「もしもし、あ、リエ?」
 噂をすればだ。手は止めずに会話を続けた。
「うん、うん……いやー、いいんじゃない? あんまり買ってくるのも重いでしょ。言っても3人だしさ。もし足らないんだったらピザでも頼めばいいよ」
 卵が混ざったところで生地は出来上がりだ。オーブン用の天板にクッキングシートを敷いて、固めのビニール袋に移した生地を絞り出す。ある程度間隔をおいて、できるだけ同じ大きさに。
「うん、食事の分だけでいいよ。……あー、あんまり期待しないどいて。一応作ったことはあるけど、ほら、お店のとかと比べちゃダメですよ。ただまあ、生クリームとイチゴあるからさ、デザートの最低ラインは問題ないってことで」
 190度で30分。セットしたら、私の仕事はおしまいだ。
「うん、待ってます。はーい、じゃあベーグルよろしくねー」
 焼き上がるまでの間にクリームをホイップしてしまおう。もうひとつボウルを出して、冷蔵庫から生クリームを出す。イチゴはあっても生地は無糖だから、少し甘めのクリームにすることにして適当に砂糖を放り込んだ。
 ここからはひたすら単純作業だ。混ぜて混ぜて混ぜる。余計なことは考えずにただひたすらに手を動かしていればいい。たまに焼け具合が気になってオーブンを覗くのは小休止。
 焼き上がるまでの時間が、お菓子作りで一番楽しい。なんてことはない薄クリーム色の生地が、焼き上がる頃にはしっかりとお菓子の姿に変わるのだ。わくわくしないはずがない。食事はろくに作りもしないのに、実家を出てからも真っ先にオーブンレンジを買ったのはこれのためだ。粉を計って砂糖を混ぜて、バターの焼ける匂いで胸がいっぱいになる。夏場は冷菓もいい。とにかく私はお菓子しか作らない。
 それはきっと子供の頃の憧れだ。家で作ってきたの、と手作りのケーキを学校に持ってくる少女の幻。漫画で読んだのだったか、そんな姿はいかにも「女の子」で、普段がさつな私は手っとり早く女の子ぶれる、ついでにお腹も別腹も満たされるお菓子作りにのめり込んでいったのだ。
 それをかわいいと褒めてもらえるのは嬉しかった。「趣味はお菓子作り」の持つステータスに感謝すらした。バレンタインにトリュフで告白をして、春には果物でプリンを作って、夏はゼリーをこの部屋で冷やして食べて、クリスマスにはケーキを焼いてふたりでお祝いをした。
 なのに。なのに。結局、彼はキッチンにスパイスをそろえるような子の元へ行ってしまった。お菓子はたまに食べる分にはいいけどさ、やっぱり料理くらいできて欲しいよ。二股をかけていたくせに悪びれもせずにそんなこと言って、挙げ句、おまえの方が浮気だから帰ってとかぬかしやがってあの野郎――。
「くっそおおぉぉぉぉぉ!」
 ボウルを持ち上げて、テーブルに叩きつける。敷いていた布巾の上で、ドン、という鈍い音が響いたが、しっかり角の立った生クリームはこぼれることなく揺れただけだった。上出来だ。
 悔しくて泣いて、散々泣いて、自分の浅はかさに後悔するのはもうやめたのだ。あんな馬鹿な男、こっちから願い下げだ。  と、にじむ目をこすっていると携帯電話が鳴った。彼、のわけはない。カズミだ。鼻をすすって声を確かめてから通話ボタンを押した。
「もしもーし。なんかあったん? ……あ、うん、1パックで。うん、ありがと」
 向こうはもう出先のようで、にぎやかな雰囲気が電話越しに伝わってくる。
「うん? ……お酒? いいね! こっちも明日休みだからさ、何だったら泊まってってよ。語っちゃうよー」
 やけ食いに付き合ってくれる友人がふたりもいるのだ。私は幸せなのだ。私のお菓子は本当に大事な人にしか食べさせないと決めたのだ。
 オーブンが高い声で鳴いた。笑い声を上げながら扉を開けると、温かい黄金色の湯気が私をふわりと包んでくれた。まんまるに膨らんだシューが、甘いクリームとイチゴを挟まれるのを待って、きれいに並んでいた。

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