return to contents...

《 page1 | page2 》

モノクロームの部屋 -page1

 その部屋の中は何もかもが真っ白で、まるで部屋全体が発光しているようだった。そこに惹かれたという実感はまったくなかったが、私は入ってすぐにその部屋に住むことに決めた。迷いはなかった。今までの人生になかったほどに。
 安いアパートだった。駅まではそれなりの距離があるし、狭い。近所にはコンビニが一軒あるだけで、あとは民家しかない。アパート内の部屋はほとんどが一般的な内装であり、外装も至って普通である。ただ私の住む部屋だけが、白い。私の前の先住者がそうしたのだと、大家は私に説明した。
「いえね、迷惑はかけないから内装を変えさせてくれって言われたんですよ。模様替えなんて珍しいことじゃあないし、わざわざ断わったあたり丁寧な人だなと思ったくらいで、ええいいですよって、気軽に言っちゃったら、まあ、こうなってたんです。そりゃ驚きましたよ。だって、これじゃあ、ねえ、病院でもないんだし。でもね、感じのいい人だったんですよ。少し暗いところのある人だったけど、挨拶はするし、ゴミもきれいに出すし、もめごとなんて起こすような人じゃなかったし。まあ部屋はこんなふうにしちゃったわけだけど、ここを出る時には何とかするって言ってくれたし……え? ああ、そう、白いままなんですけどね。正式に出たわけじゃなくて……あ、自殺とかじゃないですよ。最初にね、入居してきた時に、もし長い間帰ってこないようなことがあったら人を入れてしまって構わないからって、ええ変わった話なんですけど、でもちゃんとそういった書類も作って、契約書って言いますかね、三ヶ月戻ってこなかったら家具も譲っていいからって、そういうのもちゃんと残してたわけですよ。それで、入居してすぐに部屋を白くしたんですけど、それから丁度一年くらい経った頃に、ふらっといなくなって、三ヶ月が過ぎちゃったんですよ。そりゃすぐに人を入れるのは気がひけましたけど、戻ってくる様子もなかったし、はじめは元に戻してからにしようかとも思ったんですけど、ほら、ここまでされてると結構かかっちゃうんですよ。だからこのままで、まあそういうことなんですけど、あ、契約書見ます?」
 喋ることに生き甲斐でも感じているような大家は私の相槌を見事に飲み込んでそこまで言うと、契約書を私に押し付けたのだった。流し読みして紙を返すと、彼女は満足そうに去った。悪い人でないことはわかるのだが、彼女と話すのはどうにも疲れる。
 白い部屋で暮らし始めて、もうすぐ半月になる。住み心地は思いの他よかった。私は在宅でパソコンを使った仕事をしているが、以前いた場所よりもこの部屋の方が集中できた。余計なものが目に入らないのがいいらしい。そう考えると、理由は何であれ、この部屋に自分の荷物をほとんど持ち込まなかったこともよかったのかもしれない。
 真っ白い部屋に慣れるまで、長い時間は要らなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 その日は小雨が降っていた。仄かに灰色がかった部屋の中で、私は一人パソコンのモニターに向かっていた。
 雨の音はごく微かなものだったので、ドアホンの音は難なく聞こえた。来客の予定はなかったので何かの勧誘かと溜め息を吐きつつ、私は重い腰を上げた。雨の日にまでご苦労なことである。
 ドアノブをひねり、押す。
 外に立っていたのは若い女性だった。黒く真っ直ぐな髪に、黒い開襟シャツに、黒い細身のパンツ。私は驚いた。服装が私と酷似していたからだ。
「……あの」
 彼女の方も驚いているようだった。前髪から雨粒が垂れ落ちるのを気にする様子もない。
「白井は、いませんか?」
 低めのハスキーボイスだった。どうやら勧誘ではないらしい。
「白井とは、白井正明さんのことでしょうか」
 黒い女性は頷いた。「ご存知ですか?」
 私は曖昧に頷いた。知り合いではない。白井氏は他でもないこの部屋を白くした張本人である。私は人の名前を覚えるのは苦手だが、名前まで白かったので、白井氏は容易く覚えることが出来ていた。
「白井さんは、もうここにはいらっしゃいませんよ。私は半月ほど前に入居した者です」
 黒い女性はつと立ち尽くし、表情を固めた。
「引っ越したのですか、白井は」
 そうではなく姿の消したのであるが、ともかく私は言った。
「とりあえずお入り下さい。そこでは雨に当たりますし」
 黒い女性の肌は白く、ともすれば気を失いそうですらあった。遠慮がちに部屋に上がった彼女にバスタオルを渡すと、小さく礼を言った。その目は部屋中を目まぐるしく見つめていた。
「本当に、白井はいないのですか?」
「何故です?」
「部屋の中が、同じです」
 説明すると長くなるので大家にでも役を回そうかとも思ったが、それでは長いで済まなくなる気がしたので、止めた。
「部屋の中は、白井さんが住んでいた頃のままです。パソコンがあったり、タンスの中身が変わったりはしていますが」
 そこで彼女は初めて見知らぬパソコンの存在に気付いたようだった。私の体が隠していたらしい。
「ですが、白井さんはいません」
 私は白井氏が契約書を残して三ヶ月以上姿を消したという話をした。いざ話してみると短時間で終わった。
「そうですか」
 説明を終えると、黒い女性はそう呟いた。血色はよくなってきつつあったが、黒い服のせいでそう見えるのか元々なのか、肌は変わらず白い。
「白井は、何か、書き置きのようなものは残してはいないでしょうか」
 そう私に尋ねると、わからないと答えるよりも先に黒い女性は吹き出した。自嘲めいた笑いだった。
「どうなさいました」
「いえ、白井に限ってそんなことはしないと思いまして」
 長い付き合いを感じさせる台詞だった。それなのに彼女は白井氏がこの部屋を出たことを知らなかった。白井氏も黒い女性も、いまいち掴み難い。二人の関係は、俗っぽい想像がつくが。
「白井がここにいないことは、承知しました。お手数を掛けて、すみません」
「いえ、まあ、別に」
 黒い女性の胸中を思うと、如何ともし難い。が、私にはどうしても気になることがあった。
「ひとつだけ、お聞きしてもいいでしょうか」
 私が言うのに、黒い女性は頷いた。「どうぞ」
「白井さんは、何故部屋をこうも白くしたのでしょうか」
「気になりますか、やっぱり」
「興味本位で恐縮ですが」
 黒い女性は、初めて、楽しげに微笑んだ。
「変わり者なんです、白井は」
 聞くまでもない答えだった。
 黒い女性は「多分有り得ないでしょうけど」と付け加えた上で、白井氏のことで何か進展があったら教えてくれと連絡先を記したメモを残して去った。見ると彼女の名前は「黒澤綾乃」というらしく、そのきな臭さに私はつい笑ってしまった。

【黒い女の回想】
 「変わり者」、か。確かに彼を表すにはその一言で足りるかも知れない。けれどそれなら私も同じだ。だからこそ私たちは、確かに、惹かれ合っていた。
 長い間会わないのは、珍しいことではなかった。私たちは常に顔を合わせていなければならないような仲ではなかったら。彼は私たちの関係に美的なものを求め、私はそれに応えようと努めた。しかし私は独りの時に彼の姿を細部に至るまで、例えば胸板の滑らかさや足首の細さ、指の骨ばった感じや髪の柔らかさを思い出し、身体の奥の方を焦がすことがままあった。そして私は彼の指を、舌を、唇を求めてしまった。
 だから彼は去ってしまったのだろう。私を置いて、何も言わずに。そういう人だ。多分私は、悲しいことに、彼以上に彼のことがわかるようになってしまった。
 あの白い部屋は彼によく似合っていた。白い服を着なくとも、似合っていた。似合い過ぎて、私は嫌だった。白い服なんか着ないで裸でいる時が、一番だったのに。どうして私はそれを彼に告げることが出来なかったのだろう。何も飾らない、何にも隠されない彼が、一番誠実だったのに。
 いつだってわからないのは、自分のことばかりだ。
 彼の住んでいた部屋に行って、私は何をしたかったのだろう。長い連絡の途絶えを責めに? 別れを告げるために? いや違う、私はただ彼に会うためにあそこに行ったんだ。会って何をしたかったのかはわからない。ただ、彼の望む私でいられる間に彼と話がしたくて、行ったんだ。
 私は彼と別れたかったのだろうか。正実であろうとする彼には、女を捨てるなんてことは出来ないと思っていたから。私はもう、正実ではいられなかったのに。
 ああ、何を考えているのかわからなくなってきた。彼ほどではないにせよ、考え過ぎるのは私の悪い癖だ。
 私は再び降り出した雨に身を委ねることにした。さっきまで降っていた小雨とは違い音を立てて降る雨は、私の身体を重くしていた。
 そうだ、いっそすべてが鈍くなってしまえばいい。肉体も、精神も、すべて。そうすれば、考えることを止められるかもしれない。
 ここにいる私も、どこかにいる彼も。

《 page1 | page2 》

return to contents...

Copyright(C) 2006 GiNGETSUDO