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色眼鏡

 大きく振りかぶり、ありったけの力で眼鏡を壁に叩きつける。ぽとりと落ちた残骸を見ると、フレームが歪み、右のレンズが綺麗に割れていた。硝子の割れる澄んだ音が、いつまでも耳に残っていた。

 ひとり住む部屋にぽつりと座る。こんなもの私のものではないから心など微塵も痛まない。そう言い切るには、私にとって眼鏡の持ち主は大切すぎた。
 高校の時から友人の彼は同学年で、しかしひとつ年上だった。高校に入った年に、病気で一年ダブったらしい。その頃の彼を私は直接は知らないけれど、後に本人から聞いただけ、きっと誰よりも大変だったことを知っている。まわりの皆には平気な顔をしていたけれど、苦しく辛かったことを知っている。手術の時、まるで柔らかいゼリーの中を漂っているようだったことを知っている。彼は、私にしか話したことがないと言っていた。私は密かに喜んだ。
 彼は目が悪く、そして変わったこだわりを持つ人で、眼鏡のレンズはいつも硝子製だった。一度、ふざけて彼の眼鏡をかけた時、奇妙に重かったことを覚えている。視界がくらくらして彼の笑う顔がぼやけて見えた。きっと私も笑っていた。
 一度だけ、戯れに唇を重ねたこともあった。微かに触れるだけの。本気ではなかった。少なくとも、彼は、きっと。思い出すたびに溜め息をつれてくる記憶なんて、できることならさっさと忘れてしまいたい。
 と、携帯電話の震える音が聞こえた。私はただ視線だけをそこに移し、膝を抱いた。少しして、静寂が戻る。のろのろと体を動かして取って見ると、ディスプレイに友人の名前が出ていた。彼の名前ではない。留守録音を聞いてみると、大学に来いという非難めいた催促だった。私は携帯電話を床の上に投げて、敷きっぱなしの布団の中にもぐり込んだ。
 私は大学生だ。一応。今は通っていない。正確に言えば、夏季休業が終わってからずっと。休みが明けてからまだそんなに日数は過ぎていないけれど、夏休みの間も外に出ることはほとんどなかった。カーテンを開けると埃がちらちらと舞っていて、そんなのを見つめていると時間はあっという間に過ぎる。そんなふうにしていると毎日は次々と流れていって、そのうちに私は外に出る気がすっかり失せてしまった。彼も、もうここには来ない。
 彼は大学に入って変わってしまった。どうして彼は、あんな女と付き合い始めたのだろう。
 彼女は流行の波に軽々と乗って、いつでも余裕ある風を装う女だ。いつも似たような男たちと似たような女たちが彼女のまわりにいた。彼女の方から誘ったらしいが、そこにどうやって彼が入っていったのか知れない。流行なんかでこだわりがぶれる人ではないのに。
 彼は彼女と付き合うようになって、腑抜けてしまった。元々どこか抜けているようなところはあったけれど、それは彼らしい愛敬でしかなかった。女を見る目がなさすぎる、あの男。あの女のためにコンタクトレンズを入れるなんて。そしてここを去るなら去るで、眼鏡なんてものを残していくなんて。
 私と彼は恋人だったわけではない。けれど、お互いをよく知っていた。彼の名前は慎というのだけれど「まこちゃん」と呼んだ時の方が笑った顔が可愛い。私の名前は「明菜」というのだけれど「アキ」と呼ばれると嬉しかった。でも、あの女も彼を「まこちゃん」と呼んでいるのかと思うと、私は自分の中に煮えたぎるものがあることを感じる。
 布団を握る手に力を込めて、自分を閉じ込めようとしたが、まんまと、失敗した。
 私は彼の笑顔を思い出した。あの、柔らかくて穏やかな表情。いつも温かな大きい手も、華奢そうに見えて案外しっかりとした体つきも、私とは比べ物にならない細長い脚も、ああ、彼は爪がとても綺麗だったっけ、そんなことを次々と思い出して、私はまた落ち込んだ。ここには私と、私を隠す布団と、壊れた眼鏡があるだけだ。
 薄っぺらな私は、布団の中を漂っていた。
 不意に、泣きそうになる。さっき、散々泣いたのに。私はそれを彼のせいにした。
 どれくらいか前に来た電話。何日も前のような気もするし、ついさっきだったような気もする。彼からではなかったけれど、何度もかかってきたので仕方なく取った電話。ひどい内容だった。
 彼が事故に遭った。彼女と一緒に。
 彼女は無傷だった。彼は片目を潰した。
 それを聞いて、私は真っ白な卵がぐちゃりと踏み潰されるような様を思い描いてしまい、トイレに駆け込んで、吐いた。胃酸が喉に痛かった。それからしばらく泣いて、眼鏡を壊した。
 電話の向こうの友人が言うには、彼と彼女は別れたらしい。理由は言っていなかったけれど、簡単に想像がついた。彼の綺麗な顔に、取り返しがつかない傷がついてしまったから。だから、彼女は彼を捨てた。でもきっと、彼は黙って受け入れたろう。悲しそうに、微笑みながら。そういう人だ。
 だから、私は彼の眼鏡を割った。
 彼がここに戻ってくると、期待してしまうから。
 私は泣きそうになるのを飲み込みながら、布団から顔を出した。もうそろそろ、現実に戻らなきゃならない。重い体を這い出させ、眼鏡の残骸に手を伸ばす。片付けなきゃ。
 硝子の破片がきらきらと光っている。手に取ってみると、すん、と重い。
 こんなにも自分を嫌いになれるなんて思わなかった。
 事故の話を聞いた時、ざまみろ、と思った。
 トイレに駆け込んだが、胃液しか出てこなかった。情けない。いっそ死んでしまいたい。そうすれば、彼は私のために泣いてくれるだろうか。完全に閉じこもってしまった自分をどうかしていると思うことはできても、そこから何かを生み出すことはできなかった。いくら拳を握り締めて泣いたところで、誰にも何も届かない。
 突然鳴ったドアチャイムの音に、私は声にならない悲鳴を上げた。体は重く固まり、微かに震えた。
 鍵のかかっていないドアは簡単に開けられてしまった。足音が、一歩ずつ近づいてくる。その音が聞き覚えのあるように聞こえてしまい、私はまた泣きそうになり吐きそうになる。
「アキ」
 その声を聞いて、安らぎながら恐れている自分がいた。
「どうしたんだよ、これ。血が出てるじゃないか」
 彼は私の手を取った。手の内には割れたレンズがあり、それは私の血で赤く染まっていた。
「なんでこんな……」
 私はぐちゃぐちゃな顔で彼の顔を見上げた。不釣り合いな色眼鏡。黄色いレンズの奥を見てしまった私は、何故かそこから目が放せなくなった。
「……アキ?」
 ああ、この声。まこちゃんの声だ。
 彼の大きな手が私の頬に触れる。彼の柔らかな指先が、私の涙を吸い込む。彼の優しさは躊躇しない。私は彼の目のあった場所から視線を外した。
「立てる?」
 彼の腕に支えられると私の体は軽くなって、簡単に立ち上がることができた。もっとも、彼から離れた途端に崩れ落ちてしまうのだろうけど。
 彼は私を居間に座らせると、しばらく使っていなかった救急箱を棚から取って私の前に座った。そして私の手を取り、手早く手当てをしていく。消毒液が目の奥に染みて、息が詰まった。私の涙は止まらなかった。
「吐いたの?」
 包帯を巻きながら、彼はそう尋ねた。急に溢れ出した感情を持て余した私は、ものも言わずにただ頷いた。彼はそれから黙って手当てを終えると、救急箱を脇に避けて、私と向かい合った。その頃には私の涙もようやくおさまりかけていた。手当てをされている間、私は一度も彼の顔を見なかったから。
 覚悟を決めて顔を上げる。彼は以前と変わらないような微笑みをたたえていた。けれどもその表情はどことなく悲しげで、彼の目を見た私はまた涙ぐんでしまった。
 彼の顔に両手を伸ばす。私はそこから黄色いレンズの眼鏡を取り、代わりに私の手を置いて、目の端に触れた。
「……痛い?」
 声がかすれた。彼はただ首を横に振っただけで何も言わなかった。一つだけの目はとても優しくて、私は苦しかった。
「どうして、来たの」
 ああ、駄目だ。また泣いてしまう。
「私、まこちゃんに好きだって言ったのに」
 私は彼の顔から手も目も放さなかった。逃がしてやらない。そう思う自分が嫌で、割れたレンズでつけた傷が疼いた。
「まこちゃん、困るって言ったのに」
 彼は視線を逃がすことはしなかったが、答えを返すこともしなかった。悲しげな片目をこちらに向けるばかりで、黙った。
「どうして、戻って来たりなんかしたの」
 戻って、と私は言ってしまった。言うまいと思っていたのに。まるで彼がここにいるのは当然のことだったように聞こえてしまうから、言うまいと思っていたのに。
 歯を食いしばり、彼を睨む。でなければ私はきっとまた泣くから。
 長い時間が、ぬかるんだ泥のようにのろのろと過ぎた。その間、私たちは頼りない視線を交わらせていた。私の潤んだ目と、彼の澄んだ片目と。どうせ人の役に立つ当てもない目なら、差し上げられればいいのに。
 泣いてはいけない。答えが聞こえなくなってしまう。私はひたすらに彼を見つめた。何かを言おうとしてくれているのはわかったから、それを聞き逃すまいと必死にすがった。それが私のための言葉でないとしても。
「アキは」
 かすれた、千切れそうな声。
「アキなら、俺と普通に接してくれると思ったんだ」
 重力に負けるように視線が外される。細長い指が遠慮がちに、か細い力で私の手を引き剥がした。
「ごめん。帰るね」
 床に転がされた黄色い眼鏡が、再び彼の顔にかけられる。私は立ち上がろうとした彼の手を掴んだ。
「どうして、そんな眼鏡かけてるの」
「……どうしてって?」
「全然似合ってない」
 彼は苦笑した。
「やっぱり、そう思う?」
 頷く。だってこの眼鏡は、絶対に、彼が自分で選んだものじゃない。
「……事故に遭った後、友達がくれたんだ。この方が、目立たないからって」
 何が目立たないのかは、言わずもがなだった。彼に言わせれば、私以外の人は、皆気にするのだろう。レンズの奥を。
 私はもう一度彼の顔に手を伸ばした。私の気持ちをはかりかねて困る彼を余所目に、私は色眼鏡を外す。
「似合わないよ。まこちゃんに、こんなの」
 眼鏡をたたみ、テーブルの上に置く。私は壊れた眼鏡のことを思った。
「でも、私、まこちゃんの眼鏡壊しちゃった」
 あの眼鏡は彼に似ていた。丁寧に重く、疎かにはできない、大事な懐かしさ。
「だから、新しいの買ってあげる。まこちゃんに似合うの、選んであげるよ」
 彼はきょとんとした顔で私を見ると、柔らかく吹き出した。久し振りに見る、本当の笑顔だった。
「じゃあ、お願いしようかな」
 それを聞いて、私もやっと笑えた。もう吐き気はない。
「行こう」
 言って、彼の手を引く。
「今から?」
「うん。今から」
 久し振りに、私は外に出たい気分で満たされた。我ながら現金な行動だとは思ったけれど、この部屋を彼と一緒に出るなんて、そんな素敵なことはない。隣にいてくれる、それだけでいい。今はそれで。
「じゃあ、行こうか」
 私たちは立ち上がり、扉を開けた。久し振りに見る夏の空は、すっかり晴れ渡っていた。

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