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Hungry note -page1

 そのバーには、ピアノ目当てで通っていた。とは言っても出すものの味が悪いとか、サービスがなっていないとか、雰囲気が合わないとかそういった理由はない。ただ、その店で聴くことのできるピアノが極上だったというだけの話だ。
 仕事の終わった金曜日の夜、ハイヒールに疲れた足を踊らせてバー『ドゥエンデ』へと向かうのが私の習慣だった。毎週のように通る道はすっかり馴染んでいて、一歩進むごとに店の姿が頭の中にくっきりと浮かんでくる。ひっそりとある入口を抜ければそこはもう別の世界で、ほんの少し落とされた明かりにグラスの輝きが映えている。淡い酒気に包まれて席に着くと、羽毛のような音楽がそこにある。それはさながら樹木の香気のように私に染み込み馴染むのだ。この店の音楽に惚れ込んでいる客は少なくない。テーブル席の多い、どちらかといえば大衆的な雰囲気の店だと思うが、それでも店内に雑音はほとんどないのだから。
 私は店の奥まったところにある小さな二人掛けのテーブル席を定位置にしていた。何度か通ううちに、そこが一番落ち着いてピアノに浸れるとわかったからだった。その日も私はいつもの席に着き、最初の一杯と決めているジン・トニックを片手に、ピアノと弦楽の織り成す妙なる調べに耳を傾けていた。聞き惚れるあまり、手の内のジン・トニックはなかなか減らない。一曲を弾き終えたピアノが静まり、私は思い出したようにグラスを傾けた。氷が溶け、少し薄くなってしまっている。デコレーションのライムを絞って皮を脇に置き、マドラーを回すと、澄んだ香りが鼻孔をくすぐった。ジン・トニックのいいところは、少しくらい薄まっても美味しく飲めることだった。
 休憩に入るのか、ピアノ弾きは椅子を立ってカウンターの方へ向いた。初めて正面から見た顔はさっぱりと整っていて、珍しいほど美人な男性だと思わされた。
 ひょっとしたら私は、その顔にも見惚れてしまったのかもしれない。
 彼が私の席のすぐ横を過ぎる時、足元に立てていた鞄が外に出過ぎていたことに気付かなかった。当然、彼の爪先は鞄に引っ掛かった。
「あっ、ごめんなさい」
 反射的にそう言い、私はかがんで鞄を直した。履き慣らされ、よく磨かれたピアノ弾きの靴が目に残った。
 落ちた髪を耳に掻き上げながら体を起こすと、ピアノ弾きの漆黒の目が私を向いて見開かれていた。
「……どうかしました?」
 ちょっと心配になってしまうくらい、彼は顔色をなくしていた。
「あの、大丈夫ですか?」
 彼はそこで意識を取り戻し、はっとしたまま何度も瞬いた。驚きと入れ替わりに顔を出したのは、悲愴だとも言えるほどの、沈んだ目の色だった。
「……すみません」
 そう言ってうつむき、こっそりと深呼吸をする。それは溜め息だったかもしれない。再び顔を上げた時、彼は笑顔を作っていた。
「あなたの声が、知り合いの声に、よく似ていたものだから」
 苦笑を浮かべる彼の顔色はまだ青褪めていて、私は曖昧に頷くことしかできなかった。
「……いつも、その席に座ってらっしゃいますよね」
 驚くべきことに、彼は私を見覚えていた。
「ええ、そうですね。最近はいつも、この席です。よく覚えてらっしゃいますね、こんなにお客さんがいるのに」
「あなたは、特徴的だから」
 首を傾げて応えると、彼は小さく笑った。
「いつも、オーダーを頼んでから手をつけるまでが長いでしょう。癖のようなものなのかもしれないけれど」
 私は少しの恥ずかしさを覚え、わけもなくマドラーを回した。
「……音楽に、聞き惚れてしまうんです。それで、いつも飲むのを忘れちゃって」
 ピアノに、と限定するには恥ずかしさが邪魔をしていた。
「……もし良ければ、一緒に飲みませんか」
 とはいえ、とっさにそう誘うくらいだから、私の慎ましさなんてたかが知れているのかもしれない。
「ええ、喜んで」
 彼はそう答えて、一番の笑顔を見せた。それでもやはり、それはどこかしら陰影を帯びていた。
 弦楽だけの演奏が始まり、私の席の向かいに彼は腰を下ろした。
「エル・ディアブロ、お願いします」
 ウェイターにそう声をかけ、テーブルの上で手を組む。細い指が長く伸び、この一本一本があの音楽を紡ぎ出すのだと思うと何やら感動するような思いだった。
「いつもお一人ですよね。このお店は気に入って貰えていますか」
「ええ、とても。メニューも、音楽も」
「それは何よりです。ここのマスターは無愛想だから、誤解されていやしないかと心配で」
 人懐こい笑顔だった。程無くして一杯のカクテルが運ばれてきて、そのタンブラーは彼の前に置かれた。
「そのカクテルは、初めて見ます。ええと、エル……?」
「エル・ディアブロ。悪魔、という意味の名前です」
 言われてみれば、その色は血のように赤い。
「少し、怖い名前なんですね」
「僕はよく飲みますけど、味はさっぱりしたものですよ」
「じゃあ、次に来た時はそれを頼んでみます」
 彼は薄らと笑うとタンブラーを傾け、深紅のカクテルを一口含んだ。
「マスターが誤解されていないかって、どういう意味です? 確かに、無愛想だけれど」
「ほら、彼は強面でしょう? 体付きもごついし、滅多に笑わない。けど、僕はあんなに懐が深くて気の利く人を知りません。カウンターで飲むと、きっとよくわかりますよ」
 そこで彼はカウンターの方へちらと目をやった。つられて私もそちらを見ると、マスターは煙草をつける客の前に灰皿を差し出しているところだった。
「それでも、例えば恋人の男性に連れられて来た若い女性なんかにありがちなんですが、恐い恐いと言って話題にしてしまうんですよ。ヤクザなんじゃないか、とかね。そんな理由で足を向けなくなるには、もったいないくらいの店だと思うものですから」
「なんとなく、わかります。そういうことを言っている人、見たことがあるわ」
 そういうような客は、元よりこの店に足を運ぶべきでないのかもしれない。私がそう言うと、彼はかぶりを振った。
「通ってもらえれば、きっと良さがわかりますよ。……なんて、これじゃ宣伝ですね」
「いえ、そんな。それだけこのお店が気に入ってらっしゃるんでしょう?」
「……そうですね。このお店は、来る人を誰も拒まないから」
 そう言って伏せられた目は、いくらかの陰りを帯びていた。さっきの目に似ている。彼は笑う時、いつも同時に泣きそうになるようだった。それははっとするほど優美だった。
「何か、あったんですか?」
 言ってから、なんて不躾な問い掛けだと思った。彼は切れ長な目を私に向け、大きくしていた。
「ごめんなさい、気にしないで。何聞いてるのかしら、私」
 酔っているのかもしれないと言い訳をするには、手元のタンブラーはあまりに満ち足りていた。私は透き通ったカクテルをあおった。
「……聞いてもらえますか?」
 ごく、と喉が鳴った。
「少し、変わった話ですけど」
 タンブラーを下ろして彼の様子を窺う。その目を見ると、とても断わる気にはなれなかった。彼はやはり、静かに笑っていた。頷いて答えると、彼はエル・ディアブロをもう一口飲んだ。すぐ近くから聞こえる弦楽は、柔らかい曲調に変わっていた。
「――僕は、悪魔なんです」
 セロの音とその声は、楽譜に書かれていたように美しく重なった。
 きょとんとする私を意にも介さず、彼は続けた。
「僕は、正確には、人じゃない。それでもマスターは僕を働かせてくれる。いい音楽が弾けるならそれでいい、と言ってね。だからここは、僕にとって、とても居心地の良い場所なんですよ。ここ以外に僕の居場所はないんです」
 どうやって返事をしたものか、私は言葉に詰まってしまった。彼はというとエル・ディアブロに目を落としたまま、その色に見惚れるように言葉を止めていた。
「……こんなに人の良さそうな悪魔なんて、聞いたことがないわ」
「だから、追い出されたんですよ。悪魔失格だってね」
「……はあ」
 私の気のない答えはそのまま彼に伝わったらしく、苦笑するように、小さく吹き出した。
「信じられませんか」
「いえ、あの」
「いきなり信じると言う人よりも、信用できますよ」
 しどろもどろになる私を横目に、彼は微笑んだままでグラスに口をつけた。動じた様子は全くない。むしろ飄々とした態度に、私はとりあえず安心することにした。
「……じゃあ、あなたのピアノが素敵なのは、悪魔だから?」
「そう、ですね。綺麗なものを作るのは悪魔の十八番ですから……自分で言うのも、何ですけど」
 そう言うと彼は、やはり気の良いはにかみを浮かべた。整った曲線を描いた唇の隙間に、真っ白い歯が覗く。
「……わからなくは、ないかも」
 確かに、彼の紡ぎ出す音楽であるとか雰囲気といったものは、悪魔的であると言えるかもしれない。それほど、惹きつける何かがあった。ほんのわずかの乱れもない髪の黒さも、吸い込まれそうに深い目の色も、囁かれる涼やかな声も、美しく切り揃えられた爪も、至上の音楽を織り成す指も、もちろん生み出される音楽の一つ一つの響きまでも、全てに引力があるのだ。
「あなたのピアノは、本当に綺麗だから」
 私の答えに、彼は殊更明るく笑ってみせた。
「人の話をあまり簡単に信じると、悪いことが起きるかもしれませんよ」
「え?」
「正直な人は信用できるけれど、その分利用されやすかったりもする。だから、ええと、気を付けてください」
 ウェイターを呼んで空のグラスを預けると、彼はそそくさと席を立った。
「とりあえず、店のメニューは保証します。これからも、ご贔屓に」
 そのまま折目正しく頭を下げると、彼は元いた場所に向かって歩き出した。
 私は氷の溶け切ったジン・トニックを抱えて、その姿を見送るだけだった。席を立った時には既にピアノ弾きの顔に戻っていた彼は、彼だけの指定席に着いて演奏を再開した。相変わらずの出来過ぎた演奏は、一種の自己防衛なのかもしれない、と漠然と思った。悪魔の皮をかぶった振りをするピアノ弾きはいつものように、あくまでもいつものように、ピアノを弾き続けた。
 耐え切れず、私は押し殺した声で吹き出した。彼の横顔が、不自然に歪んでいたからだ。どうやら彼は嘘を吐くのが下手らしい。隠し切れない照れた表情は、私の席からも見て取れた。
 私はまんまと、彼に対する興味を深めてしまっていた。

 それから、演奏に一区切りついた彼に声を掛けるのが私の新しい習慣になった。いつになっても彼は私の呼び掛けに慣れることはなく、笑顔に重なって驚きが滲んで見えた。そのうちに驚きはすっかりごまかされ、笑顔だけが残った。彼の笑顔は、やはり整然としていた。
 三度目に一緒に飲んだ時に、私は初めてのカクテルを頼んだ。
「ああ、シルバー・ブリットですか……」
 彼は長い睫毛を伏せて、少しだけ困った顔をした。私は手元にある白銀のカクテルから目を離して彼を見た。
「シルバー・ブリット、駄目ですか?」
「いえ、そんな。……ただ、ちょっと、苦手なんですよ。銀の弾丸は魔を祓うから」
 彼が言うには、吸血鬼を退治する時に銀の弾丸を使う国があるということだった。銀自体に浄化の力があるとされているらしい。
「まあ、僕は吸血鬼とは違うんですけど」
「悪魔にも、苦手なものがあるんですね」
「もちろんですよ。お腹が空けば、悪魔も死にます」
 彼の話に付き合うのは、慣れてしまえば楽しいものだった。彼の口からは淀みなく応えが出されるし、物語として良く出来ていた。
「悪魔も人間と同じものを食べるんですか? お酒は飲むようだけれど」
「いえ、僕は音楽を食べるんです。他のものを食べたり飲んだりしても、お腹は膨れないんですよ」
「音楽……だから、ピアノを?」
「それもあります。雑音も食べられるけれど、ほとんど食事にはならないから。自分で食べるものを作れば、手っ取り早いでしょう?」
「あのピアノなら、美味しい食事になりそうですね」
 私たちの会話の間には、いつも弦楽の揺らめきがあった。優しくたゆたう音は耳を心地良くくすぐって、私の口を軽快にした。
「カクテルに詳しいのは、やっぱり、こういうところで仕事をしているから?」
「とも、限らないですね。悪魔は細部にひそむなんて言いますけど、僕も細かいことが気になる性質なもので……カクテルのことは、マスターに聞くんです。あの人は、お酒のことで知らないことはないから」
「じゃあ、そのカクテルの由来は聞きました? 有名なカクテルですけど」
 彼はいつものエル・ディアブロではなくマルガリータを飲んでいた。塩で縁をスノー・スタイルにしたグラスの中には私のカクテルに似た純白のカクテルが満たされていて、彼の目がそれを見つめた時、不意に私は自分の口軽を恨んだ。
「恋人の、名前ですね」
 彼はそれ以上は言わなかった。初めて私を見た時の、あの目だった。
 しかしそのことについて深く聞き出すには、彼の笑顔の防壁が邪魔をしていた。彼は嘘を吐くのは下手だが、嘘に触れさせないようにすることにかけては天才的だった。
「今、新しい曲を考えているんです。近いうちに、ここで弾けそうですよ」
 テーブルの上で、彼の指が踊った。
「美味しい曲になりそうです」
 彼の手にかかれば指でテーブルを弾く音さえも音楽になり得たが、それは私の内側に細波を立てるばかりだった。
「楽しみにしてます」
 かろうじて、笑って応えることができた。彼はもうすっかり笑顔を取り戻していた。それを救いに、私は唇に寄せたカクテルグラスを傾けた。シルバー・ブリットは、私には少し強過ぎた。

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