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時計仕掛けのいのち

 その工房には機械油の匂いが漂い、ねじを締める微かな音以外には何も聞こえなかった。ただひとつの小さな明かりで手元を照らす職人の息遣いはとても浅く、精密な時計を直すことの他に頓着はなかった。そのためなら息を止めることもいとわず、ただ一途に、機械を直す機械と化すことを己に課して生きていた。
 そんな職人が大きく息を吐く。修理が終わった証だ。命を吹き返した時計は正確な時を刻み出し、持ち主の手元へ戻るだろう。職人の吐く息には満足のいく仕事ができた充足感と、目的をなくした空しさが混じっていた。職人は何でも直せる腕前の持ち主だったが、それだけにいつも物足りなさを抱えていた。
 職人は自分の時計を持っていない。強いていうならば町の中心にある時計台がそうだったが、それは単に己の担当だということと、時間を知る手段だというだけで、たとえばこの生き返った置き時計のように持ち主に帰りを待ちこがれられるような存在は持ち得ていなかった。
 手近にあった紙袋に置き時計を放り込むと、男は職人の顔をやめて椅子の上で大きく背を伸ばした。直った機械に対しては興味を失ってしまう。持ち主に会うのも億劫だ。しかし会わねば食ってはいかれない。世界でひとりきりになってずっと壊れた機械を直し続けられればいいのに、と男はよく夢想する。男にとって修理は手段ではなく目的だった。
 と、そんな工房の気怠い静寂を破る音が玄関から飛び込んだ。意志のこもった強いノックと呼び声。男はしかめ面になるのを隠しもせずに戸を開けた。
「ああ、良かった。いらっしゃったのですね、職人様。どうか私の、私のこの時計を直してはくださいませんか」
 見知った顔の女が眉を下げ、か細い指を震わせてぎゅっと握りしめていた。すぐ近くにある花屋の娘だ。まともに話したことは一度もない。顔を合わせても挨拶もろくにしない男には、娘の普段の声は思い出せなかったが、差し迫った様子でいるのは容易にわかった。
「この、と言われても手の中では見えない」
 ぶっきらぼうに言いながら、娘の指からこぼれて揺れる鎖を指す。娘ははたと気づいて手を広げて見せた。使い古された懐中時計がそこにはあった。
「父の形見なのです。御存知かとは思いますが、父はつい先日亡くなりました。残されたのは私と、老いた祖父のみです。この時計は、まだ母が生きていた頃に父に贈った思い出の品なのです。これがあれば頑張れるのではないかと、泣きながら気づきまして、どうにかお願いできないかといてもたってもいられなくなって駆けてきたのです」
 まだ濡れたままの目で職人を見つめて、娘は息急き切らせて言った。職人は話の内容こそどうでもいいと思ったが、こんなに整った見目の娘だったかとまじまじと見ていた。涙の残るまぶたの上で、瞬きの度にまつげが震えるのに見とれた。これで物静かな女なら言うことはないと思って、鼻筋から唇からつぶさに観察した。
「直せますでしょうか。どうぞ、どうぞお願いします、職人様」
 押しつけられるように渡された時計を受け取ると、経年劣化した金属の手触りが男を職人に引き戻した。先ほどまで娘を見ていたような目つきで、今度は壊れた懐中時計を見る。職人の心が微かに踊った。
「直せる。少し時間はかかるが」
「本当ですか!」
 喜色満面で泣き出しそうになった娘は、感極まるままに男の手を取った。手の中の時計を慈しむように、男の手ごと愛おしむように強く握りしめた。
「ありがとうございます! 直るのならばいつまででも待ちます!」
 男の胸は騒いだままだったが、娘の顔を見直しているとそれが時計のせいなのかどうかよくわからなくなった。

 それから職人は懐中時計の修理に取りかかったが、時折手を止めては設計図を書き進めた。始めのうちは単なる女のスケッチだったが、時計を直す技術を使って何かを作り出すのはどうだろうかと思いついてからそれは瞬く間に設計図に成り代わった。しかと目に焼き付けた娘の顔かたちと、指先と、それから想像と理想を混ぜ込んだ体をつなげて、中には精密を極める仕掛けを詰め込んだ。男は今までにない興奮と情熱を設計図に注ぎ込んだ。懐中時計は片手間に修理を終えていた。
 いくつかの昼と夜を経て、設計図は完成した。同じ頃に花屋の娘が直った時計を受け取りに来た。
「ああ! ありがとうございます! まるで父が生き返ったかのようです!」
 時計を直している最中や設計図を書き進めている時にちらちらと男の頭をよぎった姿よりも、娘は生命力にあふれていた。時計を直したことで娘の命も幾ばくかよみがえったのかもしれない。頬を薄紅に染めて、花のほころぶように娘は笑った。やはり男の胸は騒いでいた。息苦しさに胸を押さえてしまわないように自制する必要があった。自然、男もはにかんでいた。最後に人前で笑ったのがいつだったかわからないほどだのに、それはごく当たり前のようにあらわれた。
 代金を受け取って、娘を見送って、記憶が頭の中に刻み込まれているうちにと、男は急いで設計図を手直しした。そしてすぐに製作に取りかかった。
 他の仕事も受けずに、寝食も忘れ、男は一心不乱に手を進め、ついに花屋の娘とほとんど違わない姿をした時計仕掛けの人形ができあがった。裸の背にねじを差し回すと、人形は静かに動き出した。服を着ていれば人間と見紛うほどの出来だった。人形は目を開けて一番に職人を見つめ、そして微笑んだ。
 男は耐えきれずに、己の胸を押さえる代わりに人形を抱き締めた。機械の冷たい手触りと油の匂いも気にならなかった。ただただきつく抱き締め、湿り気を帯びた息を吐きながらあいしていると呟いた。

 男の暮らしは一変した。今まで以上に仕事を減らし、自分と人形のために時間を使った。花屋を盗み見ては娘を観察し、人形に手をかけた。見目だけでなく仕草も似るように、人形はさらに美しく、柔らかく、作り直されていった。職人はそんな人形に昼も夜もなく愛を囁き、撫で、慈しみ、その腕に抱いた。人形は絶えず微笑んで男を抱き締め返した。そのうちに声も備え、男へ愛を囁き返すようにもなった。誰にも知られない、誰にも見咎められない逢瀬を重ねた。おれは命を生み出したのだと、男は信じて疑わなかった。
 ある日男は家を出て、花屋へと直接足を向けた。今までも何度か、娘会いたさに出向いては一輪だけ花を買ったりしていたが、それを人形に与えたらいたく喜んだので、今度はそのために花を買う気になっていた。もう男にはどちらが本物なのかよくわからなくなっていた。どちらを求めているのかも。
 しかし男の足は花屋に踏み入る前に止まった。職人の工房にも来る郵便配達夫が店の前にいた。花屋の娘は見慣れた微笑みを浮かべて、そして父の形見だと言っていたあの懐中時計を郵便配達夫に恭しく渡した。相手の男は驚いたように目を開けたが、程なく相好を崩して、やはり恭しく時計を受け取った。いわれを聞いているのだろう、とても大事そうに時計を撫でると、そっと胸に仕舞い、娘の手を取った。
 職人の男は目を離すことができなかった。物陰に隠れ、郵便配達夫が花屋の娘に優しくくちづけるのも、花屋の娘が郵便配達夫に聞き慣れた声で愛を囁くのも、一部始終見つめていた。
 男は手ぶらで工房に戻ると、花を買ってきてくれるのを待ち望んでいた人形を押し倒し、工具を突き立てた。腹を開け、中身をすげ替え、錆びてなお鋭い刃物を仕込んだ。

 月もない夜に職人の男は人形を連れて花屋に忍び込んだ。町は平和で、娘は疑うことを知らず、侵入は容易だった。共に暮らす祖父も、自分の寝床で小さく寝息を立てていた。
 男は安らかに眠っている花屋の娘に、人形から取り出した刃物を突き立てた。娘はかっと目を見開いたが、人形が口を押さえていたので声は上げなかった。いつもの作業だ、と男は誰にも聞こえない声で唱えた。これは修理だ、と。
 息絶えた娘を寝床から引きずり出すと、服を剥ぎ、血を洗い流し、人形に着せた。刃物もきれいに洗い、人形の腹に戻した。人形をベッドに寝かせ、血を拭った手で髪を優しく撫で、頬にくちづけて立ち去った。死んだ娘にはもう興味がなかったので、花屋の庭に埋めた。
 翌朝になり、郵便配達夫は恋を失い、時計職人は愛を手に入れた。人形は恐ろしく精巧で、その正体を疑う者は誰もいなかった。口々に言われるのは心変わりの真相を問う声ばかりだった。人形は黙り、ただ微笑むだけだった。
 職人は仕事を再開した。外で人形に会うのには金がいる。服や飾りも買い与えた。人形も花屋の娘としての仕事をつつがなくこなした。祖父だけはどうにも気難しい顔をしていたが、気立ての良い孫娘が悲しそうな顔をするだけでその疑念は霧散した。
 しかし日を重ねるにつれ、職人の男は歯がゆい思いを募らせた。花屋の看板娘は誰にも分け隔てなく微笑み、愛を振りまき花を売る。それを工房から盗み見ては鬱屈を溜め込み、夜な夜な人形にぶつけた。人形は衰えを知らず、男に愛を注いで、その腕に抱き締めては優しく頭を撫でた。母が子をあやすように、娼婦が客を諫めるように。
 男は満たされなかった。自分のいいように作り上げた人形でさえも信じきれなかった。人形に近づく男どもに妄執を燃やし、取り分け郵便配達夫は許しがたかった。失われた恋にすがり、もはやかつての想い人ではなくなった花屋の娘の元へ足しげく通う姿は、男にとって目障り以外の何物でもなかった。
 どうして君は変わってしまったんだと問い詰められても人形は答えない。君に何があったのか教えてくれと言い寄られても人形は振り向かない。思い余って手をつかみ、引き寄せようとした郵便配達夫は、ぎくりと身を固めた。人形は手を振り払い、花屋の奥へと逃げ去った。手には人間の体温が移って微かに温かかった。職人の男は、それも最後まで盗み見ていた。郵便配達夫が長いこと娘が戻るのを待っていたところまで。

 その夜、ついに男は郵便配達夫を殺してしまった。やはり手近な刃物で寝込みを襲い、死体も一番近くの花屋の庭まで運んで埋めた。
 次の朝、新聞や手紙が届かないので町中が不審がった。職人の男は新しい人形を急拵えで仕上げて代わりに立てたが、町の不審は拭いきれなかった。そもそも娘の人形が飛び抜けて出来が良いだけで、男に幾多ものいのちを生み出す能力はなかった。
 ごまかすために死体が増え、その度に疑念は深まり、男の逃げ場がなくなるまでに長くはかからなかった。
 埃の浮く工房に、おまえのせいだ、おまえのせいだ、とうめく声が響く。すぐ隣の寝室で、呪詛のごときに呟きながら、男は人形にのしかかって痛めつけていた。人形はただ眉を下げて、黙って男を見つめていた。
 男は腹に据えかね、馬乗りになって人形の首に指をかけた。体重をかけてきつくきつく絞めつけたが、人形は人形なので、花屋の娘のようにうめいたり、郵便配達夫のようにあらがったりはしなかった。ただ今まで自分には向けられなかった職人の姿を目の当たりにして、首を傾げ、自分の仕事をすることにした。
 人形は腹から刃物を取り出すと、男の腹に突き立てた。互いに裸だったので、それはとても容易だった。
 体勢を変え、男と人形が入れ替わる。かつて男がそうしたように、あの夜をやり直すように、人形は刃物を振り上げた。
 いつもの。さぎょう。これは。しゅうり。
 一言毎に刃物を突き立てた。男がいつ動きを止めたかはわからなかった。

 生き残った人々は町にあふれた人形に気づき、次々に町を捨てた。やがて町に生きるものはいなくなった。
 出来の悪い人形たちは修理されることもなく、すぐに動かなくなった。
 始まりの人形だけは、時計台の鳴る音を聞きながらしばらくの間主人を直そうと励んでいたが、それも果たされることはなく、ついには主人に折り重なるようにして動きを止めた。時計台が弔いのように最後の音色を響かせると、町は静寂に包まれた。

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