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相変わらず底抜けに楽観的な彼女

 不運にも彼女が遭った事故は規模が大きくて、会いに行った時には彼女は腕に包帯をぐるぐる巻きにした格好で僕を出迎えた。そして上半身を起こして開口一番にこう言った。
「元気?」
 僕は苦笑して丸椅子に座るしかなかった。普段の通りに会っていたら彼女は同じように僕に訊いたとは思うけれど、それにしたってこれはない。
「怪我は?」
「見た目よりは平気だと思うよ。親とか友達の方がおたおたしてるくらいだから」
 ガーゼを貼った顔で、彼女が笑いにくそうに笑う。
「連絡するの、遅くなってごめんね」
「いいよ。時子のせいじゃない。急に入院することになったんだから」
「入院って言ってもそんなに大したことじゃないんだよ」
「肘から先まで目いっぱい包帯を巻いて言う台詞じゃあないよ、それ」
「だって、足は何ともないから歩けるし、目だって耳だって口だってちゃんとあるし、もちろん鼻もあるし、腕だってちゃんと動くよ」
 時子はそう言って腕を振ったり手を握ったりして自分が元気であることをアピールした。どうやら、心配されることが不服らしい。
「あんまり無理するなよ」
「無理なんかしてないって」
 予想通りに、時子は唇を尖らせた。
「みんな心配ばっかりするんだから。本人が大丈夫だって言ってるのに」
「そりゃあ心配もするよ。あれだけの事故だったんだから」
「あれだけの事故に遭って生きてるんだからラッキーじゃない」
 きっといつまで経っても僕は彼女ほど物事を楽観的には考えられないだろうと思う。
「命あっての物種って言うでしょ?」
「言うけど……でも、電話もらった時は俺だって本当に驚いたんだから」
 一昨日、偶然にも時子の乗ったバスが横転した。居眠り運転で突っ込んできたトラックを避けた時にバランスを崩してしまったのが原因だった。死者は無かったが、新聞に「奇跡的に」とあったことは忘れられそうにない。
「出張、どうだった?」
 当の本人はそんなことお構いなしとばかりにそう訊いてくる。
「ぼちぼち」
「約束してたお土産は?」
「持ってきたよ。食べる?」
 持ってきた紙袋から名産の菓子の詰まった箱を取り出すと、時子はいかにも嬉しそうににっこりと笑って頷いた。
「ここ、いい部屋だな」
 しばらくしてから、菓子を一通り食べて満足げにお茶を飲む時子に僕は言った。
「あ、彰生もそう思う?」
「うん。日当たりいいし、中庭が見える」
「私も、起きた時ちょっと嬉しかった」
「窓、開けようか」
 頷く彼女の横を抜けて窓に寄る。すぐ外には金木犀の木が立っていて、その花を風に揺らがせていた。部屋に入り込んで来た橙色の風に鼻をくすぐられた僕と彼女は、つい破顔した。
「いい匂い」
 振り返ると時子は目を細めて微笑んでいた。
 僕は時子の顔に手を伸ばした。傷に触れないように髪の隙間に手を入れ、顎に指を置いて唇の際に触れる。時子は僕を見た。
「大丈夫?」
「だから、心配し過ぎだって」
「本当に?」
 時子は僕を見たまま、相変わらずの笑顔を見せている。
 僕は時子に触れる手を下げ、軽く引いた。すらりとした首筋に手を置いたまま、体を寄せる。時子は黙って僕の胸に頭を当てた。
「本当に大丈夫?」
 出来るだけ静かに、そう言った。僕と時子の間にも、金木犀の芳香は漂っていた。
 時子は唐突に僕の腰に腕を回すと、強く、強く引いた。息が詰まるほど、僕をきつく抱き締めた。こういう時、彼女はいつも唐突で、華奢だ。そして僕が手を首の後ろに回すとすぐに腕をほどき、僕の胸を押して離れた。もう僕を見るのはやめていた。
 ベッドの横には小さなデスクがあり、その上には見慣れた時子の鞄が乗せられていた。彼女は中から小箱を取り出して僕に差し出した。押し付けられるように僕の手のひらに納まる、小さな箱。それは出張に行く前に、僕が贈ったものだった。
「―― ごめん」
 時子はベッドの上で右手を握り締め、呟いた。
「指輪、つけられなくなっちゃった」
 そして、左手を開いてみせた。真っ白な包帯に包まれた時子の左手。
 時子は何も無いところを見つめていた。僕も、指輪も、薬指と小指の足らない左手も、何も無いところを。
 泣くことを知らなかった時子は目を開けたまま、口を閉ざした。柔らかく漂うことをやめない甘い匂いが、ひどく不釣合いだった。
 僕は手のひらの小箱を開けた。細い、細い、指輪。
 もう一度、時子の首に手を伸ばす。いつか贈ったネックレスは温かかった。その金具を外し、僕は指輪をチェーンに通した。
「つけ方なんて、どんなでもいいんだよ」
 時子の左手を握る。細い手は僕の手を握り返したけれど、その力はあまりにも頼りなくて、僕はもう一方の手を重ねて震える三本の指を包んだ。
 金木犀の風が優しすぎて、僕は泣きそうになった。
「時子は生きてるんだから、俺はそれでいいよ」
 匂いも色も橙に染まった部屋で、僕たちはしばらくそのままで居た。体の芯が、じん、と湿った。
「彰生」
「うん」
 時子は顔を上げた。それはやはり唐突で、けれども華奢ではなかった。
「私も、楽観的になっていい?」
 僕は思わず笑った。
「俺のこれは、時子ゆずりだよ」
 そして僕たちは橙色の空気を思い切り吸い込んで、二人で、一緒に笑い合った。

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