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order.-09.2 eye-opener

目覚めよと呼ぶ声が聞こえる
目覚めよと呼ぶ声が聞こえる
遠い過去から
近い未来から

 そこは、糞のような街だった。
「――ヒューゴ!」
 人間が虫のように群れていて、あちらこちらから嬌声が聞こえて、路地に血が流れて、すえた臭いに満ちた、そんな街だった。少年の溜め息はあっという間に飲み込まれる。
「さっさとそのゴミを捨ててこい! 俺は忙しいんだ、ぐずぐずするな!」
 聞き慣れた怒声を浴びながら、ヒューゴは気を失った男の体を引きずった。場末のバーを入口から出て、男の体を外に転がす。靴が片方、ドアに引っ掛かって残った。ヒューゴは男を捨て置き、靴を拾いに戻った。安っぽさを隠し切れない、薄汚れた靴。同じ視界にもっとみすぼらしい自分の足元が見える。うんざりした気分で戻ると、ヒューゴはぎくりとして動きを止めた。
 地面に横たわる男を覗き込むように、一人の男がしゃがんでいた。
「この男は、君が?」
 いつの間にそこにいたのか、ヒューゴにはわからなかった。靴をぶら下げて持ったまま、男を見る。この街には似つかわしくない、高級感のある気品が漂っている。実際、着ているものは上等そうに見えた。
「君」
 はっとして男の顔を見る。そう歳を取っているようには見えないが、若さの持つ気安さは微塵もない。
「これは、君がやったのか?」
 倒れている男の顔を指し、そう尋ねた。鼻が潰れ、口から流れた血が地面を濁している。ヒューゴは頷いた。
「素手で?」
 もう一度頷く。男は唇の端を上げた。
「いい腕だ」
 目を細めて頷く様は、どこか喜んでいるように見えた。
 男はすっくと立ち上がるとヒューゴに歩み寄り、すぐ横で足を止めた。大柄なヒューゴと、すらりした長身の男の視線が、同じ高さで交わる。
「名前は?」
 にこりともせず、男が問う。
「ヒューゴ・ジャクスン」
 ヒューゴは負けじと反発するような目を返した。男は一つ頷いただけだった。
 そして涼しい表情を崩さないままヒューゴの横を抜けると、男はバーのドアを開けた。ヒューゴは目で追いながら、顔を向ける。無意識のうちに、ほっと息がもれた。
「何をちんたらやってんだ、ヒューゴ! さっさと仕事に戻りやがれ!」
 男の肩越しに店主の顔が見えた。なおも怒鳴ろうと開けられた口が、不意に止まる。不機嫌そうに片手で耳を塞ぐ男の姿は、店主の態度を一変させた。
「これはこれは……ご高名なリュニオン・グループの若きボスが、わざわざこんな店に足を運んでくださるとは……」
 カウンターの中で大袈裟に腕を広げて媚びた笑みを浮かべる。男はその正面のスツールについた。
「私をご存知とは恐れ入るね」
「知ってますとも。めきめき頭角を現してるグレアム・リュニオンの名を知らない奴など、この東スラムにいるわけがない」
 事実、ヒューゴにも聞き覚えのある名だった。幾度となく店主が客と話しているのを聞いたことがある。曰く、調子に乗った鴨だ、と。
「さ、何になさいます?」
 ヒューゴは持ったままだった靴を投げ捨て、店内に戻った。グレアム以外の客はない。ドアが乾いた音を立て、店内には淀んだ薄暗さが閉じ込められた。
「ギムレットを。……ヒューゴに頼みたい」
 顔を上げたヒューゴの目に、グレアムの笑みが映った。穏やかで、隙のない笑い方だった。
「俺……ですか?」
「ああ、そうだ。バーで働いているんだ、ギムレットくらい作れるだろう」
「し、しかしグレアムさん、何もわざわざこんな下っ端に作らせませんでも……」
「この店の評判は聞いている。私の部下の口からね。その上で、私は飲みたいものを注文している」
 ヒューゴを見たまま、有無を言わさぬ調子の声でグレアムはそう言った。
「心配しなくても金はちゃんと払う。――さあ、ヒューゴ」
 促されるまま、ヒューゴはカウンターに入った。店主の睨んでくる目は、全く視野になかった。
 上客にカクテルを出したことなど一度もないヒューゴは、緊張で指が軋んだ。そうさせるだけの威力がグレアムの目にはあった。自分でも認知できないほどの奥深くまで踏み込んでくるような、研ぎ澄まされた視線。ヒューゴは雑念を振り払い、一心にシェイカーを振った。
 出来上がったグラスがカウンターに乗せられる。バーテンダーの指から離れたグラスの中で、水面がゆらゆらと揺れていた。
「頂こう」
 冷気をたたえたカクテルを持ち上げ、グレアムはそれをすいっと口に含んだ。舌や喉で出来を確かめていることがヒューゴにもわかった。グレアムは何も言わない。ヒューゴは知らず知らずのうちに拳を固く握り締めていた。
 グレアムは軽く頷くとカウンターに両肘を着き、指を組んだ。
「本題に入りたいんだが、いいかな」
 問答無用の視線を巡らせ、グレアムが低い声を響かせる。
「実のところ、ここへは私の傘下に入る人材を探し求めてきたんだ。評判通りで安心している」
 その目は、ヒューゴをその場に磔にした。
「どうだ、ヒューゴ。私の元で働いてみないか」
 答えは声になる前に、狭まった喉に引っ掛かって留まった。
「リュニオン・グループはこれからもっと伸し上がる。そのためにはおまえのような力がいる。くだらない喧嘩に使うだけがおまえの力か?」
「ちょ、ちょっと、困りますよ」
 二人の間に手を割り込ませ、店主が言った。
「こいつはうちの働き手なんですよ。そう勝手に引き抜かれちゃあこっちとしてもやってられない。引き抜こうって言うなら、何か……そう、見返りがないと困るんですがね」
 店主はにやけた面をグレアムへと向けてもっともらしく言ったが、当のグレアムは顔を向けすらせずに言った。
「私はヒューゴと話しているんだ。邪魔しないでくれないか」
「だからそういう話を俺抜きでされちゃあ――」
 店主の声が途切れる。グレアムの目が店主を射抜き、その口をつぐませていた。
「……私は二度は聞かない」
 目をゆっくりとヒューゴに戻し、グレアムが言う。ヒューゴの喉を、唾液が這って落ちた。
「選択肢は二つだ。ここで腐っていくか、私と共に来て己の力を試すか――さあ、どうする?」
 真摯でありながら圧迫感のある声がヒューゴに迫る。理由はわからない。わからないが、ヒューゴの中で答えは決まっていた。
「――行く」
 熱に浮かされたような嗄れ声に、グレアムは頷いた。「いい返事だ」
 緩く組まれた指を解き、スツールから立つ。
「外に車を待たせてある。何か持参したいものは?」
 ヒューゴは首を横に振った。ここから持っていきたいものなど、何もない。
「――てめえ、何考えてやがる」
 呼び止める声にヒューゴが振り向く。グレアムが小さく嘆息するのが聞こえた。
「何が『行く』だ、てめえの勝手が通るとでも思ってんのか? 住む場所もないおまえを雇ってやった恩も忘れやがって!」
 店主はカウンターから出ると大股にヒューゴに寄り、その胸を掌で突いた。ヒューゴは踏み止まり、黙って店主を睨んだ。
 かつて見上げていた背を越すまで、この目をされた時は例外なく拳が飛んできた。今も、グレアムがいないなら躊躇なく空瓶が飛んだだろう。この男は何も変わらない。この街のどこへ行っても待ち受けているのは似たような反応――そう、諦めていた。
 でも。
「――俺は行く。俺は、あんたとは違う」
 ヒューゴは拳を固めた。磨耗する日々の中で擦り切れた自我が、唸り声を上げている。
 店主は激昂した拳を振り上げた。
「――そこまでだ」
 腹に響く、断固とした声が二人の間に割り込み、そして続け様に紙束が放られた。店主の目の色が瞬時に変わった。
「ヒューゴを買い取ろう。その金でこき使える人間を雇い入れればいい」
 店主は跪き、止めが外れて床に散らばった紙幣を掻き集めた。グレアムは懐からもう一つ札束を出し、床に落とした。
「まあ、安いくらいだが」
 背を丸めたまま口元をだらしなく歪ませた店主を見下ろしながら、グレアムが呟く。そして三度、懐に手を入れた。
「ともかく、これで君と私の間には何の義理もないわけだ」
 取り出されたのは、札束ではなかった。
 え、と店主が呆けた声をもらす。グレアムの伸ばされた手の先には拳銃が握られ、その銃口は足元の店主の眉間にぴたりと据えられていた。グレアムの一挙手一投足を見ていたヒューゴは、その微塵のためらいもない動作と鈍く光る物体に目を奪われた。血脈を熱が駆け回っている。
「う、嘘だろ? なんで、どうして俺が、こんな……」
「私は伊達や酔狂で銃を振りかざしはしない」
 狭い店内に浮かぶ埃を、破裂音が霧散させた。
「……媚びられるのは嫌いでね。本心が透けて見えて不愉快だ」
 流れるような動きで銃を仕舞うと、グレアムは片膝を着いてしゃがんだ。店主は、左耳から流れる血を肩ににじませながら、歯をガチガチと鳴らしていた。
「いいか、これから先何があろうとこれ以上の金は払わないし、私からヒューゴを返すこともしない。リュニオンの邪魔はしないことだ。――耳だけで済ませたいのならな」
 グレアムが立ち上がると、それを合図にしたように店主は耳殻の欠けた耳を押さえた。麻痺していた感覚が戻ってきたのか、痛みのままに呻き声を上げている。
「そうわめくな。耳がなくても酒は出せる。……もっとも、君の腕前に期待はできんがね」
 立ち上がり、振り向いたグレアムの目がヒューゴに向く。ここへ足を踏み入れた時よりも増した威圧感が肌を射し、ヒューゴの全身に震えが走った。
「……恐ろしくなったか?」
 異様な高揚感はヒューゴの唇を釣り上げた。ヒューゴは覚えもなく薄らと笑ったまま、首を横に振った。
 グレアムは目配せを残し、出口へ向いた。それに倣ってヒューゴも足を進める。店主の呻き声が背中に聞こえたが、二人が振り返ることはなかった。
 外へ出ると、一台の車が徐行して姿を現した。一点の曇りもなく磨かれたボディに、好奇心を隠せないヒューゴの顔が不釣り合いに映り込む。
「ヒューゴ」
 車を横に、グレアムが懐に手を入れた格好で言う。ヒューゴは思わず身構えた。
「取っておけ。役に立つ」
 差し出されたのは、先程の銃だった。恐る恐る受け取ると、それはずしりと重かった。
「成り上がれ、ヒューゴ。おまえならできる。存分に力を試すといい」
 硝煙の名残が鼻をかすめる。重みと冷たさを両手に掴み、少年は頷いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 ……目覚めよと呼ぶ声が聞こえる。扉を叩く音だ。青年はゆっくりと瞼を上げた。
「起きろ、ヒューゴ。ボスがお呼びだ」
 ベッドに横たわったまま呼び掛けを放っておくと、程無くドアが開かれた。上等なスーツに見を包んだ男が、のしのしとベッドに寄る。ヒューゴの頭から、久方振りに思い出した銃の重さと冷たさは掻き消えた。
「起きてるなら返事くらいしやがれ」
「……丁度今起きたんだ」
 体を起こすと、自分の着るシャツが皺まみれになっているのが見えた。記憶を巡らし、昨夜酔いのまま寝たことを思い出す。
「今、何時だ?」
「もう昼過ぎだよ。さっさと起きろ」
 頭を掻きながらベッドから降りると、肩がみしみしと軋んだ。大きく欠伸をし、首を回して筋肉をほぐす。
「……しかし、これがリュニオン・グループのトップの始末屋の姿かね。世も末だ」
「俺くらいの始末屋なんて、いくらでもいると思うけどな」
「へえ。じゃあ、後から来た奴に頭を下げてる俺の立場はどうなるよ?」
 小さく笑いながら男に背を向け、シャツをベッドに脱ぎ捨てる。クローゼットを開けると、過度なほど清潔な匂いが鼻を過ぎた。
「で、どこにお呼び出しだ?」
「ヴァージン・リップだと。我らが成長株のな」
「急ぎか?」
「いや。私用だそうだ」
 ズボンを履き替え、糊の利いたシャツに袖を通す。もう一度、欠伸が出た。
「……おまえね、いくら自分のねぐらだからって無防備過ぎやしないか? ヒューゴ・ジャクスンの首を取って一旗上げようって奴なんざごろごろしてるんだぞ。最近じゃガルシア・ファミリーにも目をつけられてるんだろ?」
「そう簡単にやられやしないよ」
「そりゃそうだろうが……もし俺が刺客だったら、もう死んでるぜ」
「なら、やってみるか?」
 ボタンを留める手を止め、ヒューゴが男に向く。少しの沈黙が流れると、対峙した男はつまらなそうに笑った。
「勝てる気はしねえな、むかつくことに。……確かに伝えたからな。早く行けよ」
「飯食ったら行くよ」
「……実際大物だよ、おまえって奴は。普通、ボスを待たせて飯なんか食うか?」
「腹が減って死にそうなんだよ。昨日だって仕事だったんだ、少しは休ませろ」
「仕事の文句ならボスに言え、始末屋様」
 背中越しに手を振って、男は部屋を去った。
 ヒューゴはジャケットを羽織ると銃を確かめ、一番先に目に止まったネクタイを引っ掴んで部屋を出た。

 ヒューゴがヴァージン・リップに着いた頃、赤みを増した太陽は夕日になりかけていた。冷えた空気が鼻の奥に染み渡る。コートの襟を立てると、ヒューゴはきらびやかな正面玄関から離れて裏口へ向かった。店の前では皺の刻まれた口元を期待に歪ませている老人が開店を待ちわびていた。
 裏口から入ってもなお、店内は艶やかに輝いている。白かった息の色は消え、空調の利いた空気が肌を舐めた。香を焚いたような甘い匂いのある空気だった。
 目的の部屋に向かう途中、ヒューゴはつと足を止めた。廊下の奥、物置になっているスペースに耳を向ける。毛足の長い絨毯に足音を消して近付くと、男と女の押し殺した声が聞こえた。
 ヒューゴは物置の扉を開け放った。
「――命知らずだな。開店間際だっていうのに」
 男の方が振り向くより先に、ヒューゴはその首根っこを掴んで力尽くで立たせた。男のものとも女のものともとれる短い悲鳴。目を落とすと、脚を開いたままの女の潤んだ目が、暗い部屋の中で光っていた。
「寿命を延ばしたいなら、さっさと自分の持ち場に戻るんだな」
 手を離すと男はズボンを引き上げ、ヒューゴを一瞥してものも言わずに走り去った。その背を見送った目を女に向ける。モノトーンの上等な服を整えて見上げてくる女は、まだ少女と呼べる歳だった。
「立てるか」
 少女は口を閉ざしたまま立ち上がった。
「部屋番号は?」
「……十三」
「一応ボスには話しておくが……早いうちに部屋に戻って、客を迎える準備をするんだな」
 それだけ言うとヒューゴは物置を出て順路に戻った。逃げるように遠ざかる裸足の足音を背中に聞き、意図せずに嘆息が漏れた。
 目的の部屋を目前にして、ヒューゴは姿勢とネクタイを正した。リュニオン・グループに拾われてから十年近くが過ぎていたが、未だにボスへの畏怖は核の部分に根付いている。ボスに勧められて今の仕事についた後も、それは変わらない。
 ノックをしようと手を上げる。と、扉の向こうから気配を感じて身を脇へ移した。それと同時に扉は内から開け放たれた。
「――あの子は私の娘なのよ! どうしてここで働かせるなんて言えるの!」
 出てきたのは、両脇を黒服の男たちに押さえられた、一人の女だった。ヒューゴなど目に入らない様子で、部屋の中に向かって叫んでいる。女は必死に抵抗していたが、それもむなしく部屋から引き離されるばかりだった。
「ヒューゴ、入ってくれ」
 女が連れて行かれるのを見届ける前に、中から呼ぶ声がした。
「失礼します」
 部屋に入って扉を閉めると、もう叫び声は聞こえなかった。
「まったく、女というのは厄介な生き物だな。あの声の騒がしさは頂けない」
「……店の女ですか」
「元はな。私が囲っている一人だ。近々娘にも客を取らせようと思っている。名前は――」
 ヒューゴは手を上げ、制した。
「聞く気はありません。俺の仕事とは関係ない」
「相変わらず生真面目だな、おまえは」
「余計なことを知ると仕事がしにくくなるだけです。……ここに来る前、十三号室の娘が物置で襲われているのを見つけたので処置しておきました。相手は店の従業員です」
「ほう……品質管理の範疇を越えているな。嘆かわしいことだ」
 大振りなデスクに着いているグレアムは少し考えるように目を逸らし、言った。
「後で、新人にでも仕置きをさせよう。おまえが出るほどの仕事じゃない」
「……それで、用というのは?」
「カクテルが飲みたくてな。作ってくれるか」
「了解」
 部屋の片隅にあるバーカウンターに寄り、ヒューゴは上着を脱いだ。勝手の知れたカウンターの中からグレアムを見る。
「ご注文は?」
「ギムレットを」
 その応えに、ヒューゴは今朝見た夢を回顧した。あの時のせいか、グレアムがこのカクテルを頼む時は、いつもどこか試されているような感覚を覚える。
 グレアムが立ち、カウンターへと歩み寄る。
「最近、おまえの仕事振りには感心させられる。やはりセキュリティから始末屋に転向させたのは正解だった。今はもう始末屋をやっている期間の方が長いか」
「ええ。今の仕事に就いたのは、十九の時ですから」
「そうか……もうしばらく前だな。懐かしい話だ」
 スツールについたグレアムが、目を伏せたままシェイカーを振るヒューゴを見上げる。
「リュニオン・グループも大きくなった。前はただのマフィアの出来損ないだったがね。この頃は、政治屋とも繋がりができつつある」
 手を止めたヒューゴの目が上がる。グレアムは軽く首をすくめた。
「この店のおかげさ。想像以上に上客が入っている。扱いが楽で従えやすい資本で、最大限の利益を得ているわけだ。伸し上がるには力がいる。そうだろう?」
 ヒューゴは答える代わりにグラスにカクテルを注いだ。白く澄んだライムの香りがグレアムを誘う。受け取った指は、口に運ぶ前にグラスの足で戯れた。
「力を得ると、敵も増える。ガルシアのような商売敵もいれば、店で馬鹿をやる小者もいる。後者を片付けるのに、おまえのような人間は不可欠だよ。実際、おまえがいなければこうも早くガルシア・ファミリーと対当できるようになるとは思わなかった」
「買いかぶりです。……俺の仕事なんて、大したことじゃない」
「そんなことはないさ。おまえは、どんな障害も処理してくれる。私の、大事な右腕だ」
 二人の会話の間に、控えめなノックの音が滑り込んだ。
「入れ」
 グレアムの返事に扉は開けられ、一人の男が入ってくる。昼にヒューゴと話した、あの男だった。
「例の男がまた騒ぎ出しました。ここの従業員が二人、止めに入っています」
「そうか。ご苦労、レナード」
 一礼したレナードからヒューゴに向き直り、グレアムは言った。
「仕事だ、ヒューゴ。レナードについて部屋に行き、外で片付けてくれ」
 その手がグラスを口に寄せ、一口含む。「これも、いい腕だな」
「……馬鹿をやる小者、ですか」
「ああ、何の後ろ盾もない裏は取れている。始末してくれ。あいつの謝罪は聞き飽きた」
「……了解」
 カウンターから出たヒューゴは上着を着、レナードと共に部屋を出た。グレアムはその足音を聞きながらギムレットに舌鼓を打ち、満足げに頷いた。
 部屋までの短い距離を、二人は沈黙と共に進んだ。レナードがいなくとも部屋に着けると思うほど、客の声がやかましく響いていた。酔っているらしく、何事を喋っているのかははっきりしない。
 部屋の扉に付けられているナンバープレートを見て、ヒューゴは眉をひそめた。十三号室。運がない、と思った。
 レナードが扉を開け、足を踏み入れる。続いたヒューゴは室内に視線を巡らせた。床に一人の男が伏した格好のままで暴れている。従業員たちはどうにか押さえようとしているが、体格の差か気後れからか、持て余し気味である。それを、あの少女が頬を押さえて部屋の隅から見下ろしていた。
 ヒューゴは前に回り、男の正面に立った。そして、目を見張った。
「……マスター?」
 伏していた客は、左耳が欠けていた。
「あ……おまえは……?」
 客は顔を上げ、ヒューゴを見て口ごもった。虚ろな目と言葉にならない声が、記憶を探るように逡巡する。
「そうだ……おまえ、ヒューゴだな? そうだ、そうだった。おまえ、こんなところで何やってる?」
 呂律の回らない声がにやけた顔から吐き出される。その姿にヒューゴは、馬鹿だな、と思った。馬鹿は、繰り返すから馬鹿なんだ。だから、こんな目に遭う。
 男の襟首を引っ掴んで立たせると、男はえずいたような声を上げて立ち上がった。足を引きずられて部屋から出る間、男は文句の代わりに濁った声を上げ続けた。ヒューゴはそれを黙殺した。
 外へ出、男の体が再び地に転がされる。咳き込む男を見下ろすヒューゴの後ろに、レナードと従業員が続いた。
「……おい、こいつはあんまりじゃないか。俺は客だぜ? おまえ、ここで働いてんだろ?」
 外気の冷たさにいくらか酔いが醒めたのか、男は体を起こして悪態を吐いた。
「……ああ、あんたは客だな」
「だろ? 俺はさ、ただよ、注意しただけなんだよ。あの娘の、客に対する態度ってもんがちょっとばかり生意気だったもんだから、こう、注意しただけでよ」
 ヒューゴは耳を塞ぐ代わりに、懐に手を入れた。まるであの時の再現だと思いながら。
 店主はやはり呆けた声を上げ、自分に向けられた銃口を見つめた。あの時と違うのは、ヒューゴの中に駆け巡っているものが氷のように冷たいものだということだけだった。
 まだ弁解をしようとする男の口を、撃鉄を起こす音が塞ぐ。男の顔は引きつり、不格好な笑みを浮かべているようだった。
「……引き金を引くのが俺の仕事なんだ。諦めてくれ」
 そして、銃声が男を貫いた。耳ではなく、頭を。
「……ヒューゴ」
 呼び掛けるレナードの声が小さく聞こえる。重い銃を懐に仕舞い、ヒューゴは言った。
「処理を、頼む」
 息が白く浮かび、消えた。

 報告のためにグレアムの部屋に戻ると、彼は既にそこにはいなかった。ただカウンターの上に「ご苦労」と書かれたコースターと、封筒に入れられた現金が置かれているだけだった。ヒューゴは手ぶらのままで部屋を出た。
 そこここの扉の奥から漏れ聞こえる嬌声を耳に入れないようにしながら廊下を行く。扉の開く音につい目を上げてしまい、そしてヒューゴは後悔した。右手にある部屋から丁度客が出るところで、その奥に見覚えてしまった少女の顔が見えた。ヒューゴは顔を伏せ、左にどけて歩き続けた。心の裏は冷え切ったままだった。
 背に何かが触れた。ぎくりとさせられるような、無防備な触れ方だった。振り返ると、扉の隙間から伸びた細い手がヒューゴの背を離れるところだった。
「……ありがとう」
 ヒューゴは黙った。少女は笑わなかった。
「二度も助けてくれて、ありがとう」
 そう言うと、すぐに扉を閉ざした。ヒューゴは向き直って裏口へ足を運んだ。
 硝子のような夜風に背を押され、ねぐらに戻る。ウィスキーを探したが、あるのは空の瓶だけだった。上着を椅子に掛けてベッドに仰向けになり、サイドテーブルに転がっている煙草を一本取る。マッチの燃える匂いが鼻を突いた。
 今日は、色々あり過ぎた。仕事も、それ以外も。
 外から声を掛けられたのは、三本目に火をつけた時だった。
「ヒューゴ、いるんだろ?」
 昼と同じように、レナードは答えを待たずにドアを開けた。
「電気もつけないで、何やってんだ? 寝煙草は危ないぜ」
 電灯の眩しさに瞬き、ヒューゴは天井を見つめた。ヤニですっかり黄色くなっているのを見て、ここに住み始めた頃のことを思い出そうとしたが、上手くいかなかった。
「なあ、飲みに行かないか? 俺も今日は疲れちまった」
 ヒューゴは体を起こし、薄い煙を吐きながら微かに首を振った。レナードは肩をすくめるとサイドテーブルから煙草を取ってくわえた。「一本貰うぞ」
「……礼を言われた」
 擦ったマッチに顔を寄せたレナードは、火をつけるよりも先に聞いた。
「ヒューゴ?」
「礼を、言われたんだ」
 紫煙の隙間に声がにじむ。レナードは火をつけ直してヒューゴに向いた。唇の隙間からゆったりと白い一筋が吐かれる。
「誰にだ?」
 ヒューゴは目を伏せ、首を振った。くわえただけのタバコの先で、紫煙が揺らめく。
「……おい、何を考えてる?」
 幾分窺った声でレナードが問う。ヒューゴは深く煙を吸い、同じように吐いた。
「違和感だよ」
「違和感?」
「そう、落ち着かないんだ。……礼なんて言われるような仕事じゃない」
 そう呟き、サイドテーブルの上にある灰皿に手を伸ばす。大きな灰の塊がぽとりと落ちて砕けた。
「……おまえの言うことはわからんでもない。でも、それが俺たちの仕事だろ?」
 仕事。つい先程執り行った己の仕事を思い返し、ヒューゴは燃え切っていない煙草を灰皿に押し付けた。
「――嫌いだったんだ」
 銃声と硝煙の余韻の中で見下ろしたその体は、思い掛けないほどに小さく見えた。
「俺は、あの人が、嫌いだったんだ。それこそ殺してやりたいと思ったことだってある」
 だからといって、実際にそうすると考えたことなどなかった。ほんの数時間前の、あの時までは。
 思うことと行うことは、あまりにも違い過ぎていた。
「……どうかしてるよ、俺」
 揉み消された煙草が、ほぐれた葉を散らせる。ヒューゴはひっそりと目に浮かぶ色を変えた。
「疲れてるんだよ、ヒューゴ。今日はもう休め」
 溜め息混じりにそう言うレナードの横に、ヒューゴは立ち上がった。
「おい……どこに行く?」
 椅子に引っ掛けていた上着を取り、羽織る。わずかな震えが肩に走ったが、寒さのためではなかった。一度目を閉じると、震えは止まった。
「……止めるか?」
 目を開け、レナードを見てそう尋ねる。不思議と、顔には微笑が浮かんだ。
 どこへ行きつくのか、ヒューゴ自身わかってはいなかった。それでも、今向かうべき場所はひとつしかない。そして、やるべきことも。
 レナードは煙と共に、笑い声を吐いた。
「だから、俺にそんな力はねえよ」
 そしてもう一吸いすると、煙を輪にして吐いてみせた。
「挙句、引き止めるいい文句も浮かばねえ。行くなら行けよ。さっさとな」
 ヒューゴはその輪を見て、相好を崩した。
「ありがとう、レナード」
 レナードはその言葉に目をしばたたかせ、苦笑した。
「なるほど、確かに礼を言われるのは気持ち悪いな」
 つられて、ヒューゴも小さく笑い声を上げた。声を上げて笑ったのは、久し振りのことだった。
「……二度と戻ってくるなよ、ヒューゴ。俺はおまえ相手に仕事するなんざ御免だ」
「そうならないよう、俺も祈ってる」
 ヒューゴはそれを最後に、手を振って部屋を出た。
 冷たさが封じ込めているのか、雑音は耳に届かない。ただ風がひそやかに肌をなぞるだけだった。
 上着越しに、銃を確かめる。重みと冷たさは未だ胸に残っている。俺は、忘れてはいない。ヒューゴは夜空を仰いで目を閉じ、深く呼吸した。冷え冷えとした空気が肺に流れ込み、内側から研ぎ澄ますようだった。
 目を開ける。雲の切れ間で冴える月の向こうに、雪の気配がした。


ギムレット【gimlet】
ジン、あるいはウォッカとライムジュースのみで作るシンプルなカクテル。ゆえに、材料とバーテンダーの腕が試される。
アイ・オープナー【eye-opener】
@寝起きに飲む目覚ましの酒。朝酒。
A目を見張らせるもの。驚くべきこと。

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