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order.06 X.Y.Z

人はいつまで
偽りの舞台に立ち続けるのだろう
終末は目前だというのに

 やけに静かな夜だ――閉店間際のバーの中で、スタンリーはそう思った。
「今日はもう上がりですかね、マスター?」
 食器を洗い終えたウィリアムが、客のいない店内に視線を巡らせながら言う。
「そうだな……」
 グラスを磨く手を動かしたままにスタンリーが曖昧に頷く。テーブルを拭いていたルーが布巾を持ってカウンターに戻り、口を開いた。
「……マスター?」
 思案顔をしていたスタンリーは目を上げ、ルーに視線を流した。ルーは何も言わず、ただすくい上げるような目を向けている。
「……何でもない」
 スタンリー自身、去来した思いが何であるのかはっきりとは理解できなかった。
「閉めよう」
 自分の中にわだかまるものを振り払うように、スタンリーはカウンターを出て店の入口へ足を運んだ。日が悪い――そんな漠然とした思いだけがある。
 そしてドアノブに手を伸ばした時だった。
「――あ」
 ノブに触れる直前、向こう側からドアが開いた。驚いたように声を上げた男は、ドアを開け切って店内へ滑り込んだ。
「あの、お店、まだやってますか?」
 小綺麗なスーツに身を包んだ長身の男は髪を撫で付けながら人懐こい笑顔を見せた。少し困ったように、申し訳なさそうに頭を下げる。
「一杯で帰りますから……お願いできませんか?」
「構いませんよ。どうぞ」
 黙りこくっていたスタンリーに代わり、ウィリアムが答える。
「テーブル片しちゃったんで、カウンターでもいいですか?」
「ええ。ありがとうございます」
 青年はスツールに腰を下ろすとカウンターに大判の封筒を置き、ネクタイを少し緩めた。
「注文は?」
 青年に続いてカウンターに入ったスタンリーがぶっきらぼうに尋ねる。
「エックスワイズィー」
 スタンリーが顔を上げると、青年はいかにも面白そうに笑っていた。
「これで最後ですから」
 つまらなそうにふんと鼻で返し、スタンリーはライト・ラムの瓶を取り上げた。
「人から評判を聞いて来てみたんですけど……僕みたいな一見の客って少ないですか?」
 青年の言葉に、スタンリーは密かに眉をひそめた。最近、一見の客が続いている。喜ばしいことだが、どうにも落ち着かない。氷を入れたシェイカーにキュラソーとレモンジュースを注ぎ、振りながらスタンリーは答えた。
「あんたみたいに閉店時間に飛び込んでくる客は少ないな」
「ははっ。そうですか、すみません」
 カウンターに乗せられた華奢なグラスの中で、乳白色のカクテルが光を透かす。青年はカクテルグラスを恭しく持ち上げ、口へ運んだ。一口含み、惚れ惚れとした風に溜め息を吐く。
「……上がっていいぞ」
 スタンリーはすぐ横にいるルーにぼそっと伝えた。ルーは開きかけた口を閉じ、気掛かりを飲み込んで目を伏せた。小さく頭を下げ、二階の居住スペースへと足を向ける。スタンリーは黙って手元に目を落とした。
「――グレアム・リュニオン」
 唐突に放たれた名に、スタンリーはぎくりと身じろいだ。声の出所を見ると、青年が穏やかにグラスを傾けている。スタンリーは瞬きもせずに続く言葉を待った。ちらりと目をやると、表情を強張らせたウィリアムと振り返って立ち尽くしているルーの姿がある。青年はたっぷりと時間を取ってカクテルを飲み干すと、スタンリーに向けて満面の笑みを浮かべた。
「僕は、彼の元からやって来たんです」
 店内の空気が張り詰める中、青年は飄々とした態度を崩さないままに告げた。
「はじめまして。エドウィン・レイヴンと申します」
 そうして生真面目に頭を下げる。スタンリーは警戒を解かず、エドウィンを睨む目を外さなかった。
「この間、うちの者がお世話になりました。何でもここで喧嘩屋と一騒ぎ起こしたようですね。報告を聞いて、馳せ参じたわけです」
「……ずいぶんと早い仕事だな」
 エドウィンはにこやかに会釈を返した。
「まあ、彼は散々でしたが」
 そう言って苦笑し、エドウィンはカウンターの上の封筒に手を伸ばした。スタンリーが身構えるのを横目に封筒は傾けられ、中身がカウンターに滑り出る。
 耳に届いた息を呑む声は、ルーのものだったか。エドウィン以外の目は、カウンターに転がる人間の指に張り付いていた。見覚えのある指輪をはめた、死んだ指だった。
「みっともない喧嘩をしてくれたようですが、ここを見つけたのは手柄ですからね。指だけで済ませてあげたんです」
 依然としてエドウィンは笑みを絶やさない。スタンリーは背筋に冷たいものが走るのを感じた。久しく感じていない感覚だった。
「それにしても、あなたのような人にこうして出会えるなんて、光栄ですよ。僕らの世界じゃご高名ですから」
「……今更、何の用だ」
「ああ、勘違いされないでください。用があるのはあなたではなくて――彼女の方です」
 エドウィンの視線が流れる。それを追うと、顔色を蒼白にして立ちすくんでいるルーがいた。
「彼女をボスの元へ連れ戻すこと――それが僕に与えられた仕事です」
「連れ戻すだと……? 一体何の話だ」
「あなたには関係のないことです」
 にべもなく言い放ち、エドウィンは指を封筒に戻した。その隙にスタンリーはウィリアムとルーに視線を送り目配せした。二人を見、店の入り口を見る。ウィリアムはわずかに頷いた。
「――動かないで頂けますか」
 ルーに向かって一歩を踏み出したウィリアムが、息を呑んで動きを止める。エドウィンは封筒を折り畳み、スーツの胸ポケットに仕舞いながら続けた。
「仕事を増やしたくはないんです。話し合いで済ませるつもりで来たんですから」
「話し合い? 笑わせるな。リュニオン・グループは話し合いなんかしない。ただ引き金を引くだけだ」
「本心ですよ。少なくとも僕はね」
 微笑みをたたえたままエドウィンがスツールから立つ。ルーは体を大きくびくつかせ、反射的に一歩後退りした。潤んだ目をエドウィンに向ける――その視界に入り込んだのはウィリアムの背中だった。
「ルーは……ルーは渡さない」
 しっかりした言葉だったが、決して強い語気ではなかった。ルーを後ろ手にかばいながらも、顔には過度の緊張が浮かんでいる。
「おとなしくして頂けませんかね? 血は好きじゃないんですよ」
 大きく歩み寄り、ウィリアムの反応を楽しむように笑って、エドウィンは言い加えた。
「――掃除が大変でしょう?」
 首を傾けたエドウィンの目がすうっと細められる。
「――よせ!」
 スタンリーの荒げた声をすり抜け、エドウィンが一足飛びにウィリアムの懐へ滑り込む。ウィリアムには身構える暇すらなかった。
 ウィリアムの視界からエドウィンの姿が消える。自分の肩が軋んで初めて相手が背後にいることを知った。そして、右腕に熱が走った。
 骨の砕ける不吉な音。ウィリアムとルーの叫びが重なるのを耳にして、エドウィンは微かに口元を歪めた。
 と、エドウィンが前方へ飛んだ。ウィリアムとルーの間を抜けたアイスピックが壁に突き刺さる。スタンリーは素早く駆け出してウィリアムたちの前に立ち、エドウィンに鋭い眼光を向けた。
「……リュニオンのやり方は変わってないな」
 エドウィンは咳払いでもするように口元に拳を当てた。
「あなたもバーテンダーだ、腕を折られるのは嫌でしょう? 僕の仕事を妨害しない限り、お咎めはありませんよ――先輩」
 スタンリーはエドウィンに目を向けたまま、窓に映り込む二人の姿を見た。床に倒れるウィリアムに、涙を浮かべたルーが寄り添っている。気を失っているのか、ウィリアムは動かない。
「――おまえに後輩面されると虫唾が走る」
 その声には、押し殺し切れない怒りが滲んでいた。
「グレアムの野郎に言っておけ――ケツまくって失せろとな」
 尖らせた目をエドウィンに向け、スタンリーは下げた両拳をきつく握った。
「……残念です」
 二人の気が交差し、相容れないまま擦れ違う。スタンリーがちりちりとした弾かれるような感触を肌にとらえた瞬間、エドウィンは地を蹴った。
 エドウィンの左手が伸び、スタンリーに迫る。突き出た親指が目に刺さる寸前で、スタンリーはその手首を掴んで止めた。爪が眉尻をかすめて傷を作る。軋む音が聞こえそうなほど手首を締め上げ、力尽くで脇に引く。その横面に向かって拳が突き出されたが、エドウィンは上半身をひねってそれを避けた。手首が更に軋む。口元を上に歪めたエドウィンは、脚を振り上げた。柔軟に振られた爪先がスタンリーの右肘の裏を突き、手が離される。立て続けに放たれたエドウィンの左拳が再びスタンリーの目を狙い、避け切れなかった瞼の端を浅くえぐった。
 一旦下がって距離を取ったエドウィンが正面からスタンリーを見据える。傷から滲んだ血が、スタンリーの右目を濡らしていた。
「……この程度ですか?」
 失望した声を出したエドウィンが肩をすくめる。その左手首に赤黒く残った痣が覗いた。
「あれだけの成果を残しているあなたが、あのヒューゴ・ジャクスンが、この程度のはずがない。あの頃のあなたなら、今頃は僕の腕の一本や二本……」
 まるで自分が無事であることが残念であるかのように、エドウィンは言う。その台詞に重なるように、スタンリーは言い捨てた。
「成果なんて過去のもんは忘れたよ。俺には今の方が大事なんでね」
 目をこすった掌の先で、痺れの抜けない指が震える。
「……意外ですね。先輩の台詞とは思えない」
「虫唾が走ると言わなかったか」
「聞こえませんね。今を守りたいのなら、ご自身の力でどうぞ」
 再びエドウィンが地を蹴る。その拳は執拗に目を狙い、スタンリーを追い詰める。スタンリーは一歩として退かず、攻撃を受け止め、さばき、相殺した。
 二人の腕がぶつかり、同時に動きを止める。
「――どうあっても、退きませんか」
 至近距離を保ったまま、エドウィンは早口に問うた。
「そうまでして、そのお嬢さんとバーテンダーを守りたいんですか?」
 体重をかけて押してくるエドウィンをこれ以上進ませまいと、スタンリーは全力で押し返す。その顔の右半分は目の周りから流れる血に染まっている。
「あなたがこの店のマスターだから? それとも……過去の自分を知らない人間が大事だから?」
 動きの止まった店内に、一瞬の静寂が戻る。エドウィンは答えを待った。
「……よく喋る野郎だな」
 返ってきたのは、研ぎ澄まされた眼光と撃ち出された右足だった。適確に膝を狙う蹴りを、エドウィンは避け切れなかった。直撃を避けてなお、エドウィンの足には疼痛が走った。
「仕事の最中にお喋りなんぞ、素人のすることだ」
 血にまみれて仁王立ちするスタンリーに、エドウィンは挑発的な目を返した。
「……それでこそ、先輩ですよ」
 そしてまた激突が再開する。近距離を保ちながら圧し続けるエドウィンの打撃に、スタンリーの迎撃が重なる。しかし確実にスタンリーの一撃は重みを増していた。一瞬の隙を見つけては無理矢理にでも反撃するスタンリーは鬼気迫る殺気をほとばしらせ、エドウィンは気圧されるほどだった。
 じりじりとスタンリーが前に出る。エドウィンは誰にも聞こえないように舌打ちした。
 雄叫びのごとき拳がエドウィンの正面に迫った。横から弾こうと出された一撃にも勢いは殺し切れず、エドウィンは後ろへ跳んだ。拳が髪先をかすめ、エドウィンは肌が粟立つ感覚に口元だけで笑った。
 足元が溶け出したように、スタンリーの体がぐらつく。ルーの呼ぶ声が、どろりとした膜に阻まれるように聞こえた。
 自分の膝が床に落ちる音が、スタンリーの耳を劈いた。ルーが割れる声で呼んでいる。どうにかして立ち上がろうとしたが、力が入らずにスタンリーは床に手をついた。数滴の血が床に滴り、それを追ってスタンリーの体が床に落ちる。
「即効性ですから、もう動けないでしょう」
 エドウィンの声と共に、目の前に錐のような長い針が降る。地面にぶつかった針は、不釣り合いなほど澄んだ音を立てた。
「そう強いものではありませんから、少しの間じっとしていればじきに治りますよ」
 一息吐き、エドウィンは服の裾を払った。乱れた髪を整え、床に伏すスタンリーを眺めやりながらネクタイを締め直す。そして懐から財布を取り出すと、カウンターへ行ってグラスの横に紙幣を置いた。
「釣りはいりませんよ。ごちそうさまでした」
 そして再びスタンリーに視線を戻したエドウィンは、その姿に目を見張った。
 スタンリーは肘をついて体を起こし、エドウィンを睨み上げていた。
「マスター……!」
 ルーが立ち上がり、涙を絶えず流し続けたままスタンリーに駆け寄る。
「……馬鹿が……早く、逃げろ……!」
 泣きじゃくってスタンリーにしがみつくルーの声は言葉にならない。スタンリーは睨む目をルーに向けることしかできなかった。
 そこに、影が差した。跳ね上がるように顔を上げたルーの目にエドウィンが映り、怯えに染まる。
「――行け!」
 スタンリーの絞り出した叫びに背を押され、ルーは口を結んで駆け出した。涙をこらえて床を蹴り、出口だけを見て真っ直ぐに走る。
 しかし、エドウィンはいとも容易くルーの腕を捕まえ、引き戻した。抵抗を続ける腕を押さえ込み、首筋に手刀を叩き込む。呆気なく、ルーはエドウィンの腕の中に崩れ落ちた。最後に、マスター、と呼んだ声を残して。
 ルーを抱えたエドウィンが見やると、スタンリーは体を再び沈めて目だけをこちらに向けていた。
「……引退した理由が、なんとなくわかりましたよ。共感はできませんが……」
 なおもスタンリーは起き上がろうと力を振り絞る。それでも、その体が床から浮くことはなかった。
「……まあ、結局は搾取される側に成り果てた、ということですか」
 ルーを抱き上げ、エドウィンは出口へ足を向けた。ルーの涙が顎を伝い、落ちる。ひっそりとした溜め息が聞こえた。
「まったく、嫌な仕事ですねえ……」
 遠ざかっていく二人の姿を見ながらも、スタンリーは動くことができなかった。痺れた腕では怒りにまかせて床を殴りつけることすらできなかった。
 そして、扉は閉ざされた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 ウィリアムが目を覚ますと、そこは見覚えのあるベッドの上だった。弱々しい電灯の元で目だけを動かすと、スタンリーの横顔が見えた。ベッドの横の椅子に座り、己の拳を見つめている。
「マスター……?」
 呼びかけた声がかすれた。体を起こそうとすると右手がひどく痛んで、背を浮かせることさえままならなかった。
「おとなしく寝てろ。手当てはしておいた」
 スタンリーは顔だけをウィリアムに向けて、そう言った。その右目の周りにいくつもの絆創膏が貼られているのが見て取れる。朦朧としているらしいウィリアムの顔色が乱れたのを見て、スタンリーは顔を正面に戻した。
「……ルーは?」
 問われたスタンリーの表情は、部屋の薄暗さに阻まれてよくわからなかった。
「……心配するな。おまえは自分の怪我を治すことを考えろ。コックがいなきゃこの店は上がったりだ」
 ウィリアムが力なく笑う。熱を持った腕の痛みに、額には脂汗が浮いていた。吐き気をこらえるように、喉が鳴った。
 天井を見つめ、深い呼吸を繰り返す。ウィリアムは、つい先程耳にした名と、以前に聞いた名を思い合わせ、口を開いた。
「あの時……僕はリュニオン・グループに追われていたのに、それでも、マスターは助けてくれたんですね」
「……おまえは奴らのシマに首を突っ込んじまっただけだったからな。離れりゃ追われることもない。実際、そうだったろう?」
「それにしたって……マスターのおかげで僕が助かったことに、変わりはありませんよ」
 目を細めて微笑むウィリアムをスタンリーは見やった。助けた時と同じ顔してやがる――スタンリーは微かに笑った。
「俺も、アンディに助けられた」
 それでもきっと、こんな風に笑えはしなかったろうと思う。
「アンディって……マスターのお師匠の?」
「ああ、そうだ。リュニオンに追われて死ぬかと思った時に拾われて、そのままバーで働かせてもらった。……おまえと似たようなもんだ」
 そう言って、目を伏せる。ウィリアムは体を起こそうとしたがやはり痛みでできず、うめく前に止めた。
「マスター……」
 熱に浮かされた声でウィリアムが呟く。
「……マスターとリュニオンって……?」
 ウィリアムの控え目な問いに、スタンリーは再び己の手に目を落とした。その手で何を為したか、向き合って呼び起こすために。
「……もう休め」
 そうだけ言って、椅子を立つ。ウィリアムはそれ以上何も言わずに目を閉じた。
 少しするとウィリアムは浅い寝息を立て始めた。穏やかな呼吸音を聞き届け、スタンリーは明かりを落として部屋を出た。
 誰もいないバーへ降り、電話を取る。近くに放り出されていたコースターも一緒に取り、その裏に書かれた番号にダイヤルする。呼び出し音が耳に痛いほどに響いた。
「……クーガか? 俺だ。アイアン・バタフライのスタンリーだ」
 受話器の向こうから、わずかに声がもれる。スタンリーはコースターを元あった場所に投げた。
「ああ、ちょっと仕事を……いや、喧嘩じゃない。用心棒というか、留守番を頼みたいんだ。しばらく、店を閉めなきゃならなくてな……」
 手持ち無沙汰になった指でカウンターをなぞる。所々にある傷に触れる度、賑やかな記憶が脳裏に浮かび上がった。
「ああ、客が来たら帰してやってくれ。大事な客だ、丁重にな。……それと、ついでにウィリアムの面倒も頼む。ちょっと腕をやっちまってな……喧嘩屋なんてやってくるくらいだ、怪我の手当てならできるだろう?」
 カウンターから離した手を顔に持っていき、拳にくちづけるように口元に当てる。
「ああ……ああ、そうだ。大した仕事じゃないだろう。……いや、いつまでかかるかはわからん。ウィリアムの怪我が治る方が早かったら、俺を待たないで店を開いてくれていい。……いや、そう長くはかからんさ。うまく折れてるからな」
 スタンリーは受話器の向こうに届かないように深く息を吐き、目を上げた。
「報酬は、店の金庫から取ってくれ。開け方はウィリアムが知ってるから……」
 そこに、一枚の紙幣がある。スタンリーはそれを引っ掴み、握り締めた。
「……ああ、じゃあ、明日から頼む。……よろしくな」
 受話器を置き、紙幣をズボンのポケットにねじり込む。スタンリーはゆっくりと息を吐き、呼吸を整えた。店内に目をやり、電灯、テーブル、壁に床と視線を流していく。そして数々の自慢の酒が並ぶ棚を見やり、最後に行儀良く揃ったグラスを見た。
 一つ、溜め息を吐く。
 ……どうかしてる。
 これから自分が為さんとしていることを思い、ふともらす。その呟きは皮肉にしか聞こえず、スタンリーは一人苦笑した。
 どうかしてる? そんなのは、わかっていたことだ。六年前のあの日、俺は自分でこの道を選んだのだから。
 金庫に手を伸ばし、ダイヤルを合わせる。重く開いた扉の奥へ手を入れると、乾いた手応えがあった。それを取り出したスタンリーの口から、深い嘆息がもれる。
 紙の包みを解いて現れたのは、鈍く光る銃身だった。紙をよけて銃を取り確かめると、四発の弾丸が残っている。またこれを手にする時が来た――スタンリーはシャツを捲って銃を腰に差し、金庫を元の通りに閉じた。
 カウンターを出てドアノブに手をかけ、頭上から降るベルの音をしかと胸に刻み、外へ出る。朝を向かえたばかりの空は、冷ややかに冴え渡っていた。
 ドアにかかったプレートを裏返し、スタンリーは足を進める。暁に溶け消えるその背を見送ったのは、プレートに書かれた「クローズ」の文字だけだった。


エックスワイズィー【X.Y.Z】
@ライト・ラムとオレンジ・キュラソーとレモンジュースを使ったカクテル。万人向けの、メジャーなカクテル。「これ以上ない究極の味」という意味を持つ。また、閉店時に長居する客に「これでおしまい」という意味で出されたりもする。
Aアルファベットの最後の三文字。終末の訪れ。

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