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八月八日午後八時

 夏なんか、大嫌いだ。僕は心底そう思う。じりじりと焼けるアスファルトも、真っ白な入道雲も、耳をつんざく蝉の声も、すぐ溶けるかき氷も、甲子園を目指すだけは目指せと勝手に盛り上がる校内も、二人連れの目立つ海辺も、大嫌いだ。
 特に部活の朝練だ。あれは許せない。これから、どんな顔で行けばいいんだ。友達宣言をしてくれたマネージャーが待っているというのに。しかも、その相方が部長だというのに。
 八月八日の午前八時、僕はこころを失った。しゃれにもならない。
「お素麺、ぬるくなっちゃうわよ」
 そんな僕の気も知らず(言っていないのだけれど。言えるはずがない)、母親は目の前の皿を空にして家事を済ますことしか考えちゃいない。
「わかってるよ」
 僕はちんたら昼飯に箸を運ぶ。素麺は絡み合って離れようとはせず、まったく憎々しい。
「膝立てるんじゃないの、みっともない」
「みっともなさだったら、それには負けるよ」
 僕は箸で、母親の、タンクトップからはみ出したむちむちの二の腕を指してやった。早速不機嫌に染まった母親は、自分の使った食器だけを持ってさっさと引き上げた。通りすがりに僕の頭をはたくのを忘れずに。
「食べたら片付けなさいよ」
 執行猶予を与えられた僕は、気持ちと同じ早さでだらだらと素麺を片した。どうせ今日一日予定はない。なくなってしまったから。
 言われた通りのことを素直にやるのは多少不愉快でなくもなかったが、水は冷たくて気持ち良かったから、まあ文句は言うまい。必要以上に水を流しつつばしゃばしゃとやっていたら、後ろで冷蔵庫を開ける音がした。
「今夜、どうするの? 花火大会に行くかもって言ってたけど」
 母親という人種は、余計なことを思い出させてくれる。
「行かないよ。家にいる」
「そうなの? 友達と行くって行ってなかった?」
「向こうの都合が悪くなったんだ」
 そう、彼女は僕に付き合って一緒に花火大会に行くのは、都合が悪いんだそうだ。部長のせいで。数時間前の、無様にうかれた間抜けな自分の姿が思い出されて、水に流されるのを待っている食器ががちゃりとひび割れた音を立てた。どうして上手く行くと思い込んでいたのか、少し前の自分の頭を疑う。
 どうして。
 母親は相変わらずむちむちの二の腕を揺らしながら、ふうん、とだけ応えてアイスクリームを取り出した。
「そんなもんばっかり食べるから、そんななんだよ」
「何よ、そんなって」
 八つ当たり混じりに、今度は腹の方を指してやった。「夏だっていうのに」
「うるさいっ。さっさと洗う」
 僕は生返事をして食器に向き直る。悪態をついたくらいで気が晴れるなら苦労はなかった。
 母親は袋から取り出したアイスクリームをなめながら、自分の腹を睨みながら、夏なんて嫌い、と呟いて台所を出て行った。同感、と口の中で返した。
 その後ろ姿を見送ってから、後片付けを終わらせて、僕も冷蔵庫を開けた。アイスクリームはもう残っていなかった。悔し紛れに氷を口に放り込むと、冷たすぎて舌が痛んだので、噛み砕いてやった。

 窓から吹き込む風が冷たいくらいに涼しかったので目が覚めた。
 部屋の中はすっかり暗がりで、ベッドに寝転がる僕をすっぽりと包み隠している。開けたままの窓からは夕闇と風の他に、遠くで線路のがたごと鳴く音や近所の子供のはしゃぐ声なんかが忍び込んできた。この部屋だけ世界から隔離されたような錯覚に陥って、僕は軽く途方に暮れた。現実に戻ろうと時計を見ると丁度待ち合わせの予定だった時間で、二度寝しようと目をつぶったものの、妙に冴えてしまった目ではそれも難しい。居間から聞こえた夕飯だと呼ぶ声が救いだった。のそりと体を起こすとはずみで腹が鳴って、こんな気分でも腹は減るものなのかと少なからず驚いた。
 夕飯は好物のカツだったので、おかわりしつつたらふく食べた。一気に飲み下すと、気分はいくらか落ち着いた。
 居間にいるのは何だか気まずくて、部屋に引き上げる。程なくして、遠くの空から弾けるような音が耳に滑り込んできた。時計を見るまでもない。ここにいるはずじゃなかった時間が来た。僕を安全な場所へ閉じ込めてくれるヘッドホンに伸ばした手は、迷いに迷って、結局何も取らずに戻った。
 家の外、すぐ傍から花火大会の会場に向かう家族連れの明るい声が聞こえたところで、僕は部屋を出た。
「ちょっと出てくる」
 居間にいた両親にそれだけ言って、言葉通り玄関を抜ける。僕は愛車にまたがると、急いた気持ちに押し出されるように、立ち漕ぎで一気にかっ飛ばした。
 ほとんど夢中で一気に漕いで、辿り着いたのは僕の家も学校も花火大会の会場も見下ろせる高台だった。傍には誰もいない。けれど、かろうじて花火は見えた。ばらばらと散る音が光の後から控えめに続く。
 僕は隣に自転車を停めて、地面の切れ間に近付いた。首くらいまでの高さの柵に腕をかけて、顎を乗せる。ところどころ錆付いて塗料の剥がれかかっている鉄柵は、懐かしい匂いがした。日中だったら満ち満ちているだろう草いきれが鼻に蘇るようだった。彼女と知り合うよりももっとずっと前、まだこの柵よりも背が低かった頃、この近くに秘密基地を作っては毎日のように入り浸っていた。そんなことを思い出し、僕はまた少し途方に暮れる。
 どうして。
 遠くの花火を聞きながら、自分の腕の中に鼻まで埋めて、僕はまた思う。僕の人生が丸ごと揺さ振られるほど絶対と不安の間を行ったり来たりしていたことが、今はとても静かになってしまった。
 どうして、僕じゃ駄目なんだろう。
 小さな頃から大好きだった花火を、彼女と一緒に見たいと、そう思っただけなのに。
 こういう時、距離は優しい。花火の音は届いても、賑わう声は聞こえなくしてくれる。遠くではぜる火花は、空でかすんで、程なくして消えた。僕は目を見張って次の花火を待った。目をつぶってしまったが最後、きっとこぼれてしまうから。心細さがよぎるくらいの、実際はきっと短い時間が過ぎて、鮮やかな光が僕の目に届いた。一際大きな花が空を焼く様に、僕は見惚れた。それでつい力が抜けてしまって、うっかり瞬きをしてしまって、右頬が一筋濡れたのがわかった。
 どうか誰も来ませんように。酷くひとりぼっちな気分のくせに、そんなことを祈った。
 何だか今日の花火はやたらと眩しくて、しかも困ったことに優しかったので、もう僕は抗うのをやめた。どうせ誰もいないんだ、見苦しくわめいたって構うもんか。そう思って全面降伏したものの、それ以上粒になってこぼれるものはなかった。ただ滲んで見える花火がこの上なくきれいに見えるだけだった。
 そのまま頬は乾いて、僕は深く呼吸した。夜の空気は涼やかで、心地良く僕のからだに染み込んだ。
 夏も悪いものじゃないかもしれないと、そう思えたから。

*サイトアクセス888hits リクエスト作品
  御題 「花火と8に、ちなんだもの」

 神無し様、888ヒット報告ならびに御題提供ありがとうございました。
 夏を先取り、と御題を頂いたのに、投下が遅れてしまってすみません。
 なかなか締められなかったもので。しかも、なんだか辛気臭い話になっちまいました。
 でも、一粒の威力はとてつもないと思うのですよ。
 それを思えば、悪い話じゃないかな、と思えないこともない。

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